おはよう、しゃしゃ。
私はインスタグラムにイラストを載せている。
どういうわけかいいねの数が100を越えない日々が多くなった。
すると思うんだ。
確かに相手を楽しませようという考えなんてないもんな。俺の、こういう真価を見てくれって表しているだけだもんなあ。相手のことなんてちっとも考えないで、ただ思ったことを書いているだけだもんなあ
こうやって「自分の絵の評価が低くなる理由」ばかり思い浮かび、
「評価疲れ」してしまうのだけど……
同時に思ったんだ。
「もしかして自分、本質とずれたところばかり気にしていない?」
イラストが評価されないという悩みの本質

自分が描いているイラストをインスタやピクシブに乗せた際、
周りに比べると圧倒的にいいねやブックマークの数が低いと、
「ほら、お前の絵なんてしょせん、こんなもんだよ」
どこからともなく声がかかり、自分を追い詰めてしまう。
どこからともなくかかる声こそ大きなポイントであり、
私は「自縛霊」と定義しているよ。
私も自縛霊のささやきによって、
「評価されずに苦しいなあ……」
思ってしまうのだけど、ある事実に気づいてから考えが変わったよ。
緊急だけど重要でない部分と緊急でないが超重要

仕事には4つの領域がある。
緊急かつ超重要の場合はすぐにやるし、緊急でも重要でもないならやらない。
私たちが悩む選択肢は二つ。
- 緊急だけど重要でない仕事(イラストも含む)
- 緊急でないが超重要な仕事
絵の評価においては「緊急だけど重要でない」部分であり、
「ああ、評価された、褒められた、拡散してくれた、うれしい」といった、
精神的満足のみを報酬としている。
心の満足を最も得たいなら、イラストの評価は重要だ。
「いいねの数」を千単位でもらい、にやにやしたいならいいねは重要だ。
しゃしゃはどうだろう?
いいねを万単位でもらった「後」に「次」は何が待っているか?
次をきっちり想定するなら重要だ。

例えば「君はいいねを1千ももらっている。に〇〇の絵を描いてほしい」
絵に関するお仕事をしゃしゃに選んだ理由が「言い値の数」なら、
いいねの数を集める強い理由ができあがる。
強い理由は目標になり、少しでも多くの人からいいねをもらおうと躍起になる。
また個展を開いてみんなに自分を評価してもらうために、
いいねの数を重要視しているなら、理由もある。
いいねをもらったからと言って、
別にイラストに関する仕事を募集しているわけじゃないよ。
個展を開く気もないよ。ただ評価されるのがうれしいんだ。
うれしい気持ちを満たすために集めるのもまたいい。
「イラストを描き評価を多くもらう自分は愛されている価値がある。
自分がこの世にとどまる意味もある」
考えているなら改めたほうがいい。
また仕事を得るためにいいねを気にしすぎるのも改めたほうがいい。
評価が低くても絵の仕事を提供する人はいるのだから。
で、私の場合は自分に尋ねた。
「いいねの数を多くもらう、そこに劣等感を抱いていないか?
緊急だけど重要でない分野に意識を向けていないか?」
本当に力を入れるべきでないポイントに力を入れ、
集中すべきところを軽く見ていないか?
他人が描いた絵の評価をした結果

ツイッターや知恵袋などで時折見る言葉がある。
「私の絵がどう思われているか知りたいので、評価してほしい」
コメントや疑問を浮かべ、実際に評価をするのだけど……難しい。
自分の基準で「うまい」や「へた」と言った言葉はすぐに出る。
イラストというのは「一か所」の視点で見てはならない。
絵を描くにつれて数か所の評価ポイントが現れる。
一か所目は単純に自分が見て「うまい」か「へた」かだ。
さて「うまい」と「へた」にはどんな基準があるのだろう?
ピカソが描いたゲルニカの良さ分かる人いる?
私は正直ぜんっぜん分からなかったんだけど、彼が15歳の時描いた絵をみてから衝撃を受けた。
既にほぼ完成された絵を描けた人がここまで突き抜けて変化したのめちゃくちゃカッコイイし、天才も典型から始まったんだなと。ピカソ15歳← →ピカソ55歳 pic.twitter.com/IkPxHOky2n
— ナナチル@アダルトチルドレン (@burytheold) July 22, 2019
例えばピカソがかいたゲルニカなんてへったくそな絵だ。
よくあんな小学生でも描けそうなインチキイラストを、
多くの人が評価するなあ~と、絵を描かぬ時代の私は思っていた。
15歳に比べると、ずいぶん腕が落ちたものだと。
自分でイラストを描くようになり試行錯誤を重ねるようになってから、
むしろあのへったくそな絵には裏があると分かった。
ピカソは普通のうまい絵を描いている。
「普通のうまい絵」というのは自分が普段描いているような感じのイラストだ。
ゲルニカを「即席で描け」といわれても無理だ。
パパっと思いつくような感じの絵ではないからだ。
- なぜ牛のような顔だけを出したのか?
- 魂のような人間を描くのにどんな意味があるのか?
自分が普段描いている絵という視点ではへたくそに変わりないものの、
へたくそな絵に見える事実こそ「描き手の狙い」がある。
学生時代の私は描き手の狙いをつかまないからこそ、
単純に絵を見て「うまい/へた」で判断できた。
絵は一つの評価で決めるほど優しく簡単ではない。
むしろ年を取り芸術を学ぶほど評価項目が増えて、
単純に「うまい/へた」で割り切れない。
しゃしゃからみて私が描いた絵について、「うまい/へた」は直感で判断できるだろう。
「うまい/へた」以外の部分も評価してといわれたら難しいのではないだろうか?
どんなイラストに「いいね」をおしたくなる?

もう一つ。しゃしゃはどんな絵を見たとき「いいね」を推したくなるか?
私の場合は付き合いのあるインスタフォロワーならほぼいいねを押す。
ただしじっくりとイラストの意味や解釈をせず、
「あ、フォロワーの〇〇くんが絵を描いた」
だけでいいねを押している。
しゃしゃはどうだろう?
どういう時、初めて接したイラストを見て、いいねを押したくなるか?
私が推す場合、たいてい「自分にない価値」があるときだ。
今の自分にはなくても、将来の自分にはある絵の価値や技術。
後は「なんだこれ」と予想を覆す内容や、
「なんてすばらしいメイキングなんだ」と感動した作品には、
相手が誰だろうと知らずにいいねを押したくなる。
しゃしゃはどうだろう?
どんな絵を載せたとき、いいねを押したくなるだろうか?
自分の事例を通した場合、
どんな時に自分で描いた絵を評価したくなるだろうか?
「誰もイラストを評価してくれない」ほうに焦点を向けるため、
正反対の考え方に焦点が当たらないよね。
イラストの評価って単純に見えて複雑

イラストの評価はイラストや芸術を学ぶほど難しくなる。
単純にうまいかへたかなら、自分の価値観で評価すればいいだけだ。
どんなイラストにも「背後」があり、
絵の研究を通して背後の奥深さを知るにつれ「うまい/へた」でわりきれなくなる。
へたにはへたなりの意味があるし物語もある。
見る人がどこまで背後を持って見ているか?
同時にイラストとしてどこまで背後を引き出せるか?
イラストの評価について「上がらない」悩みについて、
反対の立場をとると見える世界が変わるよ。
人は技術より心に動かされる?

さて上記画像をインスタにあげた。すると新規のいいねがいつもより多い。
技術でいう「うまい/へた」なら下手だと思っている。
技術以外の部分……心の視点で見ると引き込まれる何かがある。
技術という視点で見ると「評価に値しない」のかもしれないが、
技術以外の部分で見れば「ぐっとくるものがある」意味で
評価をいただいたのかなと分析しているよ。
技術がだめでも心や笑いと言った技術以外の部分において、
評価人数が増える事実を見ていくと……
絵も「信用」でなりたっていると感じたんだ。
信用は主にお金方面で使う言葉だ。
人にお金を貸す、あるいは払うのも信用があるためだ。
信用とは「これなら信じてもいい」とゆだねる行為だ。
他には「愛」とも置き換えられる。
作品を見たとき、よくわからないけれど、いい雰囲気を感じた。
うまく言葉にできない温かさを示している。
絵にも「これならゆだねてもいい」と鑑賞者が感じる。
私にとって「新たな実験」になりそうだ。
超簡単に自分の絵が評価される方法

自分のイラストを評価してもらうための超簡単な方法があった。
人様のオリジナルキャラクターを描いてあげる。
くわえて人様のオリジナルキャラクターに「感動した私」が、
「どこに感動したのか」を描く。
あるいは「こういう活躍をしたら面白そう」など、
「他人のオリキャラを見て感動した何か」を描けばいいだけでは?
あるいはフォロワーだった人は
「こういう生活をしてもいいよね」と元キャラを使って、
「オリジナルの生活風景=薄い本によくある設定」を描いていた。
少なくとも描いた人は何かしらの評価をしてくれる。
もちろん目指している部分は違うだろうけど、
オリキャラの作者=第三者からは何かしらの評価をいただくよね。
そこで評価されるための計画として
- 人様のオリキャラを描いてみる
- オリキャラを描くとき、ただ描くのでなく+1の考えを載せてみる
+1の考えとはオリキャラを描いている人も想定していない、
描き手である自分が想定した状況に沿って描く行為だ。
例えば上記画像だと「元気を与える、エネルギーを与える」
視点で描いてみたんだ。+1の発想だ。
プラス1の発想に必要な考え方

どうすれば+1の発想を得られるか?
描き手(私)は人間だ。
鑑賞者(第三者)も人間だ。
人間にはそれぞれ心がある。生活がある。
絵や芸術という視点でなく「人間の生活」という視点で描いてみる。
絵の目的を改めて考えてみるといい。
昔の私は「目立ってナンボ」しか考えなかった。
しかしある時から「人の心を上げる、支える存在」思うようになった。
人の心上げるきっかけがこちらに書いてある。
「人々の関心」をテーマに今の世の流れを見たうえで、
「自分としてできること」をやるだけ。
イラストを描いて評価してもらうという考え方を抜け出し、
人間としてどんなエネルギーを提供できるか?
絵は自分の中にある感動を伝える手段・道具と、
絵に対する定義を変えてしまえば、絵の在り方も変わっていく。
評価の意味も変わっていくよ。
