おはよう、しゃしゃ。
しゃしゃは神社に参拝している? 墓参りもしている?
私は月初めに参拝しているよ。
神社参拝したら「ご利益」がわいてきた。
という感じの本を読んで実際に参拝したけれど、実際はご利益も効果もなかった。
「じゃあ、やっても無駄だよね」と。
実は「効果がないしご利益もない」事実こそ神社参拝を行う一番のメリットなんだ。
ご利益のない神社に参拝する本当の意味
私は神社に参拝するとき、お金を出してただ頭を下げている。
つぶやく言葉として、
神社で「〇〇をかなえてください」や「〇〇がかないますように」と、
お願いは決してしないしする気もない。
神社に参拝してもご利益がないと分かっているからだ。
神社は「自分のだれにも言えない話を聞いてくれる場所」であり、
神社は何も語ってくれるわけではない。
語ってくれる場でないからこそいいのだ。人の夢をかなえてくれる場でもない。
願いとは反対の現実を提供し、より厳しい立場に置かれるときもある。
神社が願いをかなえる場所でなく、
誰にも共感してもらえないしわかってもらえない辛さや悩みを、
淡々と聞き流してくれる場だからだ。
何ももたらさないコンサルタントにお金を払う自分
![](https://i0.wp.com/www.megabe-0.com/main/wp-content/uploads/2019/08/2019-08-30-07.26.20-1.jpg?resize=236%2C300&ssl=1)
私は最近、かなり無駄な方面にお金を使っている。
一つがコンサルタントにお金を払う時だ。
コンサルタントは私の悩みを解決してくれない。
私も悩みを解決しようと思って、彼にお金を払っているのではない。
周りに言っても理解できない意見や宣言を、コンサルタントは黙って聞いてくれる。
私はお金を払って、ただ自分の話をするだけだ。
コンサルタントからは特に価値をもらっていない。
しかし彼には「ある特定の話を聞くにふさわしい」と考えているから、
私は喜んでお金を払い、ただ聞いてもらう。
結果、ふと何かに気づいて新しい行動をとる。
コンサルタントは私の悩みを解決しないし、私もよしと捉えている。
ただ自分で勝手にしゃべっているうち、
「あ、こうすればいいか」と気づかされるだけ。
なぜ価値のない存在にお金を払うのか。
最強のコンサルタントは自分自身の中にいる
![初恋](https://i0.wp.com/www.megabe-0.com/main/wp-content/uploads/2019/08/2019-08-02-06.33.38-1.jpg?resize=454%2C300&ssl=1)
しゃしゃにとって最強の神様は外側にいるのではない。
自分自身の内側=丹田に存在しているのだ。
私は神社やコンサルタントにお金を払い、
「自分自身の内側」の言葉を表へ吐き出すために語っている。
私の勝手な思い込みだけどキリストやイスラムにおける神は、
どうも「外側にいる絶対的存在」として捉えているように見える。
自分にとっての神様は「己の丹田」に存在しており、
適切な言語を用いて語ってくるのではない。
ただ「じんわり」と丹田が温かくなるだけだ。
丹田が温かい=神がしゃしゃに意見を出しているだ。
自分自身だと丹田の言葉を引き出しにくい。
だから「相応の存在」と話を通して丹田の言葉を引きずり出す。
神社やコンサルタントといった存在は「言語翻訳ソフト」であり「受信領域」だ。
神社の本質をつかむと願い事をかなえるという言葉が、
私にとっては「神社に依存」しているだけであり、
「自立していないよなあ」思ってしまう。
自立していると実感するからこそ、
私はご利益のなさそうな墓場でも先祖を通して対話するし、
神社でもただ自分の話を語って頭を下げる。
神社にご利益なんてあるわけがない、だからこそ
![じんじゃのいぬ](https://i0.wp.com/www.megabe-0.com/main/wp-content/uploads/2019/07/2019-07-28-14.02.07.jpg?resize=360%2C300&ssl=1)
神社のご利益を期待する人は「形あるもの」を求める。
お金、理想の相手、仕事、健康その他……形あるものを求めると、神社に縛られる。
縛られるとは自ら依存に走るのであり、生きる権利を神社に奪われるのと同じだ。
神社にはご利益なんてない。
ただ話を聞いてもらう場所であり、だからこそ価値がある。
有名な神社もいいけれどさびれた神社でも意味がある。
ご利益なんて全くないからこそ安全に参拝できるし、
変なストレスも生まれないと強く考えているよ。
願いが「その場」で叶った「後」
![ままと怪物](https://i0.wp.com/www.megabe-0.com/main/wp-content/uploads/2019/07/2019-07-02-07.46.09-1.jpg?resize=223%2C300&ssl=1)
参拝から翌日、ふと思ったんだ。
ある歌手が神社で「将来は武道館、さいたまアリーナ」
願った瞬間、さいたまアリーナにいる。
マイクがあり歌わなければいけない。目の前には数多くのファンがいる。
とてつもない緊張感に耐えられるよう、うまく歌わねばならぬ。
願いをかなえるために神社に行く。かなった「瞬間」は気分が最高潮になる。
かなった「後の現実」についてはほとんど考えない。
かなった後の現実とは実際の行動だ。
例えば歌手なら今、目の前にたくさんのファンがいると想定する。
ファンを想定し、そこで力強く歌う。
音程をはずさず力強く歌うには、見合うだけの力が必要だ。
力とは技術はもちろん場をこなして鍛えられた心などだ。
「いきなりかなって」しまうと場をこなしていない心はパニックを起こす。
相手を感動させる実力もなければしらけてしまう。
場をこなすとは数多くの体験(失敗前提)をこなす意味であり、
反省を通して次へつなげていく。
そう考えると願いを叶えたいという気持ちは、
相応の実力がないとワンランク上に上がれないなと思ったよ。
普段から「かなった状態でシミュレーション」を行うと、
かなってもビビらないし「まさかの出来事」にも何とか対応できる。
「なるほどなあ」思ったら取り入れてね。
![お願い](https://i0.wp.com/www.megabe-0.com/main/wp-content/uploads/2018/05/sheare2.jpg)