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東洋経済の貧困強制社会記事から書き手としての対策が浮かんだ

おはよう、しゃしゃ。

東洋経済オンラインが年収300万円に苦しむ非常勤講師記事を載せていた。
ジロウさんという非常勤講師が登場し、
大学の公募に応募しても、採用されず、苦しい日を過ごしている。

記事がヤフーニュースに載っていた。
ヤフコメを見ると、結構厳しい意見が多かった。

厳しい意見を通し、私たちに今からやるべき課題が見えてきたよ。

 

記事一つから現れる「今後の課題」とは

ヤフコメを見ると、

採用側の意見がない
業績があるのに採用されない、ジロウさんにも問題がある

東洋経済オンラインのみの記事だと、
「ジロウさん、頑張れよ」しか思わないけれど、
ヤフコメを見ると「ジロウさん、もっと自分を観なよ」

私を含む「記事を出す側」は書き手の立場で物事を見る
書き手の思考や会社の立場によって記事を書く。

記事元の大きな主張は貧困強制社会だ。

現代の日本は、非正規雇用の拡大により、所得格差が急速に広がっている。そこにあるのは、いったん貧困のワナに陥ると抜け出すことが困難な「貧困強制社会」である。

記事+引用:年収300万円「非常勤講師」が苦しむ常勤の壁

ヤフコメあり記事:年収300万円~(ヤフーニュース)

大きな主張に沿って、貧困強制社会に生きているであろう人に対し、
取材を行って情報を引き出している。

立場として「貧困だと思う人たち」を選び、
採用する「会社側」の立場や気持ちをほとんど書いていない。

ヤフコメでは「会社側の視点」に立って書いている人が多い。
むしろジロウさんに対して厳しい意見を伝えている。

私たちが今後、直に見るべき「現実」はここにある。
記事を書く側は「片方の立場」を描くけれど、
記事を読む側は「もう片方、また別の立場」を見たうえで意見を述べる。

 

現実と世の中をどれだけ捉えている?

朝日新聞が衆議院選挙後、面白い記事を書いている。

記事1:自公3分の2 野党の役割 まず臨時国会を求めよ

記事の内容「今後臨時国会で取り上げるべき課題は、
まず森友・加計学園騒動であり、
北朝鮮のミサイルでも外交でも経済はついででよい」

記事2:野党一本化なら63選挙区で勝敗逆転 得票合算の試算

記事の内容「立憲、希望、共産、社民、野党系無所属による野党共闘がうまくいけば、
63選挙区で勝敗が入れ替わり、与党の議席数は減っていた」

※ 一部ログインしないと読めないから、別ソースから持ってきた

ネットでは朝日新聞の意見を笑っている。
願望で記事を書くなよ」が目立った。

安保法案に始まる、野党連合の結果として、
民進党が大きく分裂したと私も考えている。

民進党だって保守思想やリベラル、反日などいろいろいる。
大きく目立った思想が「反日」だった。

加えて日本が置かれている「現実」をきちんと捉えているの?
野党連合を見ていると、疑問を抱いたよ。

メディアの立場だけを見ていたら、
野党連合⇒今の政権に逆らって革命を起こす姿、素晴らしい。

ネットの立場を通して「双方」の意見が入ると、
「現実は北朝鮮のミサイルに始まり、チャイナの尖閣、
韓国の武島など、日本の国防に大きな問題があるのに、
自衛隊や日本を愛して守る立場を無視、苦しめさせるつもりか」

もちろん、メディアと同じ論調もあったけれど、違う意見もあるわけだ。

 

嫌な意見は聞きたくないよね

メディアには「相手側の立場・意見」はあまり聞きたくない。

多すぎて無視を決め込んだ結果、
いつの間にか世の中よりも自分たちの立場を優先する。
結果、世の流れを間違えてしまい、運気を落としてしまう。

私も書いている記事に対し、第三者から批判されると、

「心にグサッとくるなあ。言われたくないなあ~」

どちらかといえば嫌な気持ちを抱える。
批判も罵倒は無視するけれど、
「こういう事例もあるんだよ」ならきちんと向き合う。

結果「へえ、自分の考えがまた一つ広がった、ありがたい」
批判を通して別な視点を知り、感謝の念を抱くんだ。

しゃしゃはどう?

 

静かな読み手が抱く現実を捉えたうえで

私は記事の書き手という発信者であると同時に、
別の人が書いた記事を読む「静かな読み手」でもある。

しゃしゃが今、何かしらの記事を書いているなら、
なるべく「相手側、別な人の理論・立場」も考えたほうが、
より深くて新しい発想を読者へ提供できると思うんだ。

反対に洗脳手段として「新しい発想」は邪魔でしかない。
だから考えさせないよう、別の立場を描かない。

今の時代は気軽にコメントを書ける。

(私のブログもコメントは閉じている。
ツイッターやはてぶといったところにコメントを書けるためだ)

必ず「もう片方の立場」に沿った意見も現れる。

「もう片方の立場」を無視して、
自分だけの立場に沿って記事を書くのか。

「もう片方、全く別な立場」の意見も取り入れ、
いろんな考えから記事を書くか。

後者(いろんな立場)は手間と時間を要するよ。
調べる素材が多いしね。だから別な発想を浮かべやすい。

ビジネスならアイディア、
小説なら「頭にもない人物像」が浮かんでくるのではないか。

 

本や商品の紹介はどうする?

私は時折、本の紹介をしている。
本の紹介をする際、基本は悪く書かない。

どんなくだらない、読む価値のない本ですら、
「必ず学ぶべき価値・部分」があるからだ

例えばくだらないと判断した場合、
どこにくだらなさを感じたのか。

くだらないと感じた部分を追い求めていく。
すると「自分が本を出す、紹介する際」の基準ができる。

くだらない本も自分にとって「勉強」の一つだ。
くだらないと一言で切り捨てるさまこそ、
「チャンスを見つける発想」ができていない。

くだらない部分にも価値を見出す。
記事でいう「相手・別な立場」で意見を述べる行為だ。

しゃしゃが今、何かしらの商品やサービスを紹介する際、
取るに値しない価値でも「この部分が勉強になった」

くだらなさを含めて学習し、人へ伝えていこう。

 

脱線:芸術に現れるその人の「価値」

最後に一つ、芸術論の話を。
ピカソのゲルニカという絵がある。

スペイン内戦中に描いたんだと。
参照サイトにスペイン内戦とゲルニカが生まれた背景を述べている。

1937年のスペイン内戦は左派(ソ連が応援の社会主義)と、
右派(ドイツが応援の保守勢力)が争っていた。

ピカソは左派の立場に沿って右派を批判する狙いで描いたそうだ。
(なお、ピカソが共産党員だと知って驚く)

ピカソはゲルニカについて、
「絵に描かれている牛は牛、馬は馬。
絵の対象物に芋を持たせる考えは私のアイディアではない」

参照:スペイン内戦に介入したドイツ軍によって空襲された町ゲルニカ

芸術なんてしゃしゃが見た感想をそのままぶつければいい。
私はこの絵を見たとき「もっとうまく描けよ」だった。

スペイン内戦+ピカソの立場という情報が加わると、
「気持ち悪い。心に不気味な化け物が潜む感じ」だ。

下手くそだけど、心に衝撃を与える。
(岡本太郎氏いわく、芸術はきれいであってはならない。
心地よく会ってはいけない、うまくあってはいけない)

うまいもきれいもしゃしゃによって定義が違う。
絵を見るときに抱いた感想に「自分の気持ち」が現れる。

私の場合「気持ち悪い・不気味な化け物」を感じた。
どうしてそう感じ取ったのか。

絵を通して「自分の心」を分析し、新たな考えを見つける。
「新たな自分の考え」こそ、芸術の効果だと思うんだ。

新たな自分の考えこそ「別な視点からの意見」でもある。
一人の書き手として、偏る部分はあるけれど、
いろんな立場を見たうえで書いていきたいものだ。

 

おまけ:誰のために記事を書くの?
立場

インスタグラムでイラストを上げています。

ところで記事を書くとき、どんな事情があって書くのでしょう?
いろんな目的があるけれど、私の場合は基本、自分のためです。

私があるニュースや出来事を通し「気になった」とき、
「気になった正体」を探るために記事を書きます。

気になるためには質問する。

今回の東洋経済オンラインニュースだけだと気にならなかったけれど、
ヤフコメを見て「会社側の意見」を書いている人を多く見かけたとき、

「私の中で何が起きているのだろう、何を私に教えようとしているのか?」

オポノポノの理論に沿って記事を書いているよ。

関連:オポノポノは悪書だけど読むべき

相手が求めて居そうだから書いているのもあるけれど、
まず自分が気になった。何かを気づかせようとしている。

だから記事を書いて「新たな自分」を見つける。
しゃしゃはどうだろう?

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ティラノスクリプトや小説家になろう、ピクシブ他で物語を書きながら、 「私が気になった事件」の裏側を作家の視点で書いているおっさん。

プロフィール画像は自画像でなく、Megabe-0ブログのマスコット、めがびちゃん。

 

雷が苦手で、光を見ると頭が固まる(元から固い)。 月初めは墓参りと神社参拝を行い、賽銭箱へ1万円を入れた際、とても気持ちがすっきりした。

 

■ 簡単な自分史 ■

0歳:釧路のある病院で生まれる。暇さえあれば母乳を吸って、ご飯を4膳食べても体重が落ちるほど、母のダイエットにものすごく貢献したらしい

 

3歳:行方不明になり、全裸で海を泳ごうとしたところ、いとこのお姉さんに発見され、この世へ留まる

 

8歳:自分のお金でおもちゃのカードを初めて買い、経済を知る。なぜか父親に怒られ、家出するがすぐに見つかる。

 

12歳:学校で給食委員長になる。委員長として初めて全校生徒の前にて演説する際、原稿用紙を忘れてアドリブで笑いを誘いながらも何とかやり過ごし、多くの生徒に名前と顔を覚えてもらう。また、運動会の騎馬戦では変なアドリブを行い、多くの笑いを誘った。

 

18歳:初めて好きな人ができたけれど、告白が恥ずかしくてついにできず、別れたことを今でも根に持っている(妻となる人にははっきり言えてよかった)

 

21歳:大学在学中、アルバイトを始める。人手不足かつとても忙しい日々を過ごしながら「どうせなら自分から楽しいことをしていきたいなあ⇒起業って選択肢があるのか」働き方の選択肢を見つける

 

27歳:自分で作った会社がうまくいかず、一度たたんで都落ち。実家でとことん自分を責める日が続く。「何をやっても駄目だな、お前は」など。自分を責めても自殺ができず、体中から毒素があふれ出て苦しい日々を送る。寝るのも怖かった日々。

 

28歳:「このままじゃいけない」決心を決め、小学校からの勉強をやり直す。高校の勉強で躓きながらも、学び直すうちに「自分は何もわかっていなかったんだなあ」大切な教えに気づかされる。 加えて、小説やイラストなど「今までの自分が手を出さなかった分野」に手を伸ばしてみた。

 

29歳:「定義」と「自己肯定」こそが生き方を決めると気づかされ、不安な日々が起きても、心が強くなったと感じる。でも子供の誘惑にはめっぽう弱くなる。

 

35歳:人生初の交通事故(物損)に出会う。冬道の運転で車を上下に大回転(スピンではない)を体型氏、何とか命を取り留め、なぜ生きているのかわからない状態に陥る。

自分の生き方はすべて自分が握っている。わずかな瞬間にしか現れない「自分の真実」を表に引きずり出し、ピンチからチャンスを生み出す発想や視点をブログやメルマガ他で提供中。