おはよう、しゃしゃ。
地震が起きる数分前に私は目を開けた。
ふと、中学校時代にいじめられていた自分を思い出した。
嫌な奴から、そして友達だと思っていた人から……
今思うと自分の弱さ、相手とけんかする覚悟のなさ、
大ごとになって両親を中心に迷惑をかけたくないという、
徹底した逃げの姿勢に原因があると考えている。
大人になってまさかおっかない人と喧嘩をしたり、
精神が嫌がる現実と向き合いまくって、
自殺しても逃げられない生き方を送るとは思わなかったけどね。
いじめられた時の自分を思い出しながら、同時に思った。
俺をいじめていたあいつ、今頃……

元気でやっているだろうかと。
なぜいじめたやつに対して「元気でやっているだろうか」
私は気遣っているのだろうか?
年月を経ると「いじめ」は思い出に変わる。
年を取るといじめていたやつも少しは変わっているだろうと期待する。
いじめていたやつだって社会の波にもまれまくって、
少しは丸くなっているんじゃないかと思っているのだ。
もちろん、尖ったままでいるやつもいるだろう。
私をいじめた連中も社会に出て、
自分とは違う立場の人たちから徹底的に叱られる。
そりゃ経験が浅いもの。
いっぱしの使える人になるまで上司として厳しく接するのは当たり前だ。
この時、見方によっては「職場の上司からいじめられた」思うかもしれない。
昔の自分だったら「自分が受けたことを同じように苦しめ」思っていた。
年を取ると自分もいろいろ辛酸をなめたからこそ、
相手も似たような立場を受けているだろうという前提に立っている。
だから「元気でやっているだろうか?」と思うわけ。
そいつが相変わらず誰かをいじめているのかもしれないし、
反対にいじめられているのかもしれないし、よくわからん。
記事を読んでいる人の中にはいじめたやつに対し、
憎しみと仕返しの気持ちを抱くかもしれない。
そっちの感情は一時の気持ちだから、行かなくていい。
そんな感情を中心に生きるくらいなら自分で企画を立てて、
常日頃新しいもの、苦難(企画)に挑んだ方がいい。
世間の厳しさが鍛えてくれた「強い?私」

私はいじめを受けていた。社会に溶け込むという行為が苦手だった。
だから仕事は在宅という、あまり人とかかわらない仕事を選んだ。
結果、ある仕事の件ではおっかない人と電話したり、
お金が底をついて浮浪生活を体験し、
「避けたかった、かっこ悪い自分」と向き合った。
避けたかった、かっこ悪い自分の一つがいじめられたときの記憶だ。
自分が弱いから、喧嘩する覚悟がないから……
とにかく「自分の弱さ」に嫌気をさしていた。
さて嫌気の記憶を消し去る行為は簡単だ。
しかし消し去るのでなく、次の行為をやってみた。
死ななくてありがとう、自分

いじめられていた時、本当に居場所がなかった。
親も自分をかばうどころか「やり返してこい」と跳ね返す。
だれにも甘えられる状況じゃなかった。中学校の時、本当に死にたいと思った。
しかし死ななかった。毎日が苦痛だったのに私は死ななかった。
死ぬ度胸がなかっただけだが、かえってよかった。
度胸がないからこそ結論を先延ばしにできる。
結論を先延ばしするとは「時間が今の状況を解決してくれる」考えだ。
中学校はいつまでも続かない。
3年続けば次は高校という、今までの連中と別れる。
常にそこへとどまっているわけではない。
仕事だって同じだ。自分から「新しい職場」に行こうとすれば、
決意さえあればいつでも行ける。
あの時「死ぬ」という選択肢をとらなかった。
社会に出ると「いじめ」が生ぬるいほどの地獄を味わったけど、
「地獄の状況でも死ななかった」自分に感謝している。
あの時、死なないと決断した過去の自分に感謝している。
いじめを耐え抜いていた自分に「ありがとう」といっている。
いじめで解決しなければならない「自分の在り方」

いじめは時間が解決するときもある。
しかし何らかの方法で、あの頃の自分と必ず向き合う日が来る。
「いじめられた時の記憶」という形で。
今朝、いじめられた時の記憶がよみがえり、私はとても苦しかった。
しかしいじめた連中に対して、
「あいつは今頃元気にやっているだろうか?」思った。
さらに「あの時死ななくてありがとう、過去の自分」と、
情けないと決めつけている自分に対し、感謝の言葉を送った。
あの時の自分を「情けない」と決めつけているのは今の自分だ。
今は時間がたち様々な経験をすると、考え方も変わる。
「今」という時間をもって「過去の自分」を評価する。
単純に捉えると「あの時の自分、やっぱり情けない」思うよ。
本当にそうだろうか? 上っ面で決めるのはいかがなものか?
上っ面で決める自分は「私は価値が低くて当たり前」という、
「自分のみの周りにあるものすべてが低くて当たり前」という、
「目の前のダイヤをゴミと捉える」気持ちだ。
上っ面で判断してはいけない。
目の前にあるモノ、自分の人生全てにおいて、
「実はとてつもなく大切で価値が高い」
事実に気づかなければならぬ。上っ面で物事を捉える姿勢を送るな。
「別の方面」で捉え「あの時の自分も今も価値が高い」と、
「価値が高い」前提で物事を見るんだ。
いじめられた時の記憶を通し、
「いじめられた情けない自分」という上っ面でなく、
「いじめられても死なずに生きた、強い自分」という、
高くて深い価値で物事を見てみよう。
上っ面に騙されない姿勢こそ、あなたが習得すべき技術だ。
