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初詣:ご利益のある神社ランキングを見ても全く意味がない理由

神社

おはよう、しゃしゃ。
正月3日が終わり今日から平常運転だ。

初詣を済ませただろうか?
私は1日2日と地元の神社に参拝した。

一つ目の神社は鈴があり二つ目はない。
いつも行く神社は二つ目であり並ばねばならぬ。

1日の参拝は寒い風が絶え間なくふいたおかげで、
参拝後は頭痛を患うという結果になった。

一つ目の神社から嫌われている……?

嫌われようが参拝はする。参拝といえば「ご利益」を求めたがる。

どの神社に行けば確実なご利益があるのか。

ご利益は「自分にとっての利益」と判断している。
だからこそご利益のある神社ランキングをみて、
ご利益の在りそうなところに行くのだが……意味はない。

 

ご利益(りやく)とは何だ?

参拝

初めにご利益の定義から入ろう。
やさしい仏教入門というサイトに答えが載っていた。

ご利益といえば神様仏様に祈った結果、祈った人に何らかの良い出来事を連想させる。

特に切羽詰まった事情ほどご利益として解決する。

ご利益を求めに参拝した→自分の問題が解決した

優しい仏教入門サイトによると、
ご利益は中間に「善き行為の結果」得られる利益と述べている。

善き行為として「利他の思想(自分以外の人がプラスになる)」があり、
他には「自利即利他、利他即自利」の思想もある。

要は自分(他人)の利益は他人(自分)に跳ね返る行為だね。

参照:ご利益といえば?

 

賽銭箱は貧しい人の心を救う道具

ましゅう

続いて賽銭箱にはお金を入れる。
だけどなぜお金を入れなければならないのだろう?

お金を入れなければ神様がご利益を下さらない?
別にお金をやらなくてもご利益は得られると思う。

賽銭箱にお金を入れたからといって、理想の展開が訪れるわけではない。

むしろ正反対の「さらに苦しい展開」が訪れるときもある。
私が実際体験したからね。

賽銭箱に金を入れる行為が何をもたらすのか。

賽銭箱を通してしゃしゃはお金を出すよね。
お金を出すとは「見返りのない商品」にお金を払う行為でしかない。

商売の感覚で考えると相手は商品やサービスを持っていない。
なのにこっちがただ払って何も得られない。

普通に考えて矛盾しかないのだけど……実は対価がある。
対価とは「心の広さ」に他ならない。

特に貧しいとお金を1円でも出すのが惜しくなる。

惜しくなるからこそ見返りのない商品(サービス)へ先払いし、
気持ちを少しでもおおらかな方向へ変えていく
のだ。

おおらかな気持ちを抱くと視野ばかりか度量も広がる。
広がっていくと「まさかな展開」が訪れ、
あれよという間に「問題が解決」してしまう。

見返りのない商品(賽銭箱)にお金を入れる行為は、
見返りを求めるために行うのでなく、
心の狭さを強引に広げるために行うのだ。

広くなれば「なんでか知らんが」展開がやってくる。
展開に従って生きていけばいいだけだ。

 

今更学ぶ参拝方法(+鈴のやり方)

参拝の方法として基本、神社本庁公式HPに乗っている。
二拝(礼)二拍手をした後、最後に一拝(礼)する。

他の神社では細かい作法があるから、
それぞれのやり方に飛んでもらうとして……

鈴が付いた神社では賽銭箱にお金を入れた後、
鈴を二度ほど鳴らし、立つ位置を中心からずらし、
二拝(礼)二拍手をした後一拝(礼)する。

先に鈴を鳴らし、後は普通の作法でいいのね。

参照:参拝方法

参照:神社参拝の作法。鈴を鳴らすタイミングはいつ?

 

ご利益がある参拝神社ランキングなど無意味な理由

少しでもご利益が欲しいからこそ参拝する。

考えが既に間違っている。
ご利益は善行の結果得られると仏教入門に書いている。

確かに善行は大切だよ。
人は自分が思うほど他人を見ているからね。

ご利益の定義として、
「僕や私が思う通りの展開になりますように~」と、
何とかして自分の願いをかなえようとするために祈る。

参拝は「自分の願いがかなえるために使う道具」だろうか?

仮に願いがかなわないと確実に分かっているなら神社に参拝するだろうか?

ほら、怪しいツボや財布と一緒だ。
「この〇〇を財布に入れておけば100万円以上があなたの財布に!」

といった宣伝文句でいろいろ商品があるね。

「〇〇を入れたら俺の財布が~」と将来に期待しているからこそ購入する。

※もちろん例外もあるだろう。

ご利益を対価とした神社参拝など怪しい商品購入と同じだ。

参拝の本質は別なところにある。
一つが「みみっちい自分を少しでも広い器に変える」場だ。

ご利益があるといっても必ずしもあるとは限らない。
数学でいう確率と同じ考えだ。どの神社に参拝しても1ではない。

毎日参拝したら365日のうち100日くらいはご利益がある。

同様に確からしいという考えに基づくと、
適当な率で自分にとって良い出来事が訪れた際、
「ああ、ご利益を得た」と認識するかもしれぬ。

神社はご利益があろうともなかろうともどーでもよく……
むしろご利益の出る確率がほぼ0なところほどよい。

ご利益をもらうのではない。
あなたが神様にご利益をあげるのだ。

 

ご利益を「あげる」という考え方

神社参拝の本質は「もらう」よりも「あげる」にある。

賽銭箱にお金を入れてご利益をいただくのでなく、
賽銭箱を通して神様にご利益をあげる、与えると考え直す。

発想を変えるのだ。

自分が神様にご利益を渡す

「……俺達って神様に守られながら生きているはずなのに、
なんで俺たちがご利益を上げなければならないんだ?
普通、神様からご利益をもらう側だろ」

たいていは「もらって当たり前」と考える。当たり前だからこそ疑ってみる。

神様からご利益をもらって当たり前を疑えば、

「自分が神様のごとく、神様にご利益を与えていいんじゃないか?」

考え方をひっくり返すと世界も変わって見られるよ。

事業でいうと従業員の考えから経営者や投資家といった、
「お金を出す側」の考えに立ってみるのだ。

もらう側から払う側に変われば、お金についても深く考える。
もらう側には決して見えなかった分からなかった部分も見える。

すると今までの考え方とは違う「別の生き方」も視野に入ってくる。

 

ご利益の本質は「何もない」こと

神様のご利益を私なりに定義すると、
「日々何も問題を感じない状態で過ごす生き方」にある。

  • 経営者だとお金が気になる。
  • 独身だと(人によって)パートナーが気になる
  • 子供がいると子供の今後が気になる
  • 体に病があると健康が気になる

人間は常に「気になる悩み」があり、悩み解消に向けて時間を費やしてしまう。

悩みが一つもなければ「やりたいこと」にまい進できる。

「やりたいこと」を阻害する要因が悩みだ。

だから悩みをすべてぶっとばし「何もない日々」こそ、
最高のご利益に他ならない。

「ご利益が何もない!」と嘆く状態こそ、
実はすでにご利益を得ており、気づかないだけ。

 

目の前にいるから「気づかない」のだ

さっき家内でいとこ(シングルマザー)の話になっていた。

いとこについて細かく振れないけれど、
いとこの子供とおばあちゃんが喧嘩をしていた。

いとこの子は中学校1年生。反抗期にさしかかる。
いとこのおばあちゃんは嘆いていた。

「あいつのために送り迎えやご飯を作っているのに、
あいつはちっともお礼を言わないどころか、
当たり前の権利としては向かってくる、それが許せない」

私も過去同じ行為をしていたよ。
一人になってから初めて親のありがたさを感じた。

母も妻も姉も述べている。

家から出て独り立ちすれば初めてわかる。
反抗期の今、目の前にいる人のありがたみに気づくほうが異常

同じ現象がご利益にも言える。

「かなってほしいこと」をいとこの子供に、
「叶えたいためにしていること」を神様に置き換えてみよう。

神様は人間がよくなるようあれこれやっている。
人間は自分にとっての理想展開が訪れず嘆いている。

人間にとって神様のありがたみを肌で実感できるときは一つ。
神から独り立ちしたときのみだ。

なお神様とは日本の定義における八百万の神様で、
神様の中に「あなた自身」も含まれるよ。

神社参拝にて神様からの依存
(願いが叶うかどうかにいら立ちを募る)よりも、

神様からの自立(頼らない、願いを言わない)した生き方こそ、
年齢や肩書に関係なく「人として」求められていると確信しているよ。

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Writer軽い自己紹介

ティラノスクリプトや小説家になろう、ピクシブ他で物語を書きながら、 「私が気になった事件」の裏側を作家の視点で書いているおっさん。

プロフィール画像は自画像でなく、Megabe-0ブログのマスコット、めがびちゃん。

 

雷が苦手で、光を見ると頭が固まる(元から固い)。 月初めは墓参りと神社参拝を行い、賽銭箱へ1万円を入れた際、とても気持ちがすっきりした。

 

■ 簡単な自分史 ■

0歳:釧路のある病院で生まれる。暇さえあれば母乳を吸って、ご飯を4膳食べても体重が落ちるほど、母のダイエットにものすごく貢献したらしい

 

3歳:行方不明になり、全裸で海を泳ごうとしたところ、いとこのお姉さんに発見され、この世へ留まる

 

8歳:自分のお金でおもちゃのカードを初めて買い、経済を知る。なぜか父親に怒られ、家出するがすぐに見つかる。

 

12歳:学校で給食委員長になる。委員長として初めて全校生徒の前にて演説する際、原稿用紙を忘れてアドリブで笑いを誘いながらも何とかやり過ごし、多くの生徒に名前と顔を覚えてもらう。また、運動会の騎馬戦では変なアドリブを行い、多くの笑いを誘った。

 

18歳:初めて好きな人ができたけれど、告白が恥ずかしくてついにできず、別れたことを今でも根に持っている(妻となる人にははっきり言えてよかった)

 

21歳:大学在学中、アルバイトを始める。人手不足かつとても忙しい日々を過ごしながら「どうせなら自分から楽しいことをしていきたいなあ⇒起業って選択肢があるのか」働き方の選択肢を見つける

 

27歳:自分で作った会社がうまくいかず、一度たたんで都落ち。実家でとことん自分を責める日が続く。「何をやっても駄目だな、お前は」など。自分を責めても自殺ができず、体中から毒素があふれ出て苦しい日々を送る。寝るのも怖かった日々。

 

28歳:「このままじゃいけない」決心を決め、小学校からの勉強をやり直す。高校の勉強で躓きながらも、学び直すうちに「自分は何もわかっていなかったんだなあ」大切な教えに気づかされる。 加えて、小説やイラストなど「今までの自分が手を出さなかった分野」に手を伸ばしてみた。

 

29歳:「定義」と「自己肯定」こそが生き方を決めると気づかされ、不安な日々が起きても、心が強くなったと感じる。でも子供の誘惑にはめっぽう弱くなる。

 

35歳:人生初の交通事故(物損)に出会う。冬道の運転で車を上下に大回転(スピンではない)を体型氏、何とか命を取り留め、なぜ生きているのかわからない状態に陥る。

自分の生き方はすべて自分が握っている。わずかな瞬間にしか現れない「自分の真実」を表に引きずり出し、ピンチからチャンスを生み出す発想や視点をブログやメルマガ他で提供中。