東京オリンピックの新しいロゴが決まったそうですね。
楽しみだなあ、佐野さんで反省したから、
今度は厳正な審査を行ってやるだろうと思ったら……
東京オリンピック新ロゴ

早速元ネタ画像が特定されているよ(笑
作者インタビューを聞いてみないとわかりませんが、
もしこれが「完全なオリジナル」であり、
「一つも真似していない、すべて独創性だ」述べていたら、
私たちが抱える課題ここにあり、ですね。

デザインは博報堂の永井一史氏で、
五輪エンブレムの審査委員長、永井一正氏の息子だそうです。
1億3千万もかけて2ヶ月もかけて何をしていたんだろう。
どう考えても&のロゴが同じであり、
橙色に少し暗さをまぜ合わせているので、
元画像のPlug&Seeを元に作っただろうと推測できます。
私個人として、橙色はせめて元絵より明るいほうがいいな。
この絵だと暗い太陽をイメージしており、
東京オリンピック後の未来でも示しているのか?
また&を使った意味を知りたいです。
&の正式名称はアンパサンド(ampersand, &)で、
「~と…」を意味する記号です。
フェイスブックによると、
”東京とつながる。何かがはじまる”を表現したとのこと。
「~と東京」ということで「誰」が東京とくっつくのか。
ここをはっきりしておいたほうが良いかなあと。

ほか、楽天のRにも似た感じがしていますね。
赤丸の中に文字を入れると衝撃とわかりやすさが備わっています。
ツイッターで下記のサイトを通し、「確かに似ている」と思いました。
楽天の場合「R」は楽天の頭文字だからわかりやすい。
楽天にも似ていると指摘したサイト:イオリオ
他のロゴの類似も別サイトで指摘されていました。

こちらも海外のサイトです。
JONES & CO
色々ロゴを見つけ、その中で「これを組み合わせの一つとして使おう」
決めたのでしょうね。
※こういうところに世の中のからくりが隠れている

後はデザインというより、元絵を基準に算数をやっている感じ。
単純に掛け算引き算足し算で物事を決めている。
そろばんをはじいているんじゃないか?
これが仮に大村智教授が見たら激怒でしょう。
人まねをするなというのが、彼の信条なので。
元ロゴについて
※ Plug&Seeホームページにあった画像
元絵のPlug&Seeはホームページを見ると、メガネの会社なのですね。
Plugは栓や差し込みといった意味。
上記画像を見ると、プラグの意味が分かりますね。
Seeは見るという意味なので、メガネを通してみるということ。
眼鏡を修理して、きちんと物事を見ますよ。
意味が分かりやすいですね。

上記画像は平昌(ピョンチャン・ヒラマサ)オリンピックロゴ。
雪の結晶を示すマークと、
ギリシャのパルテノン神殿を思わせる4つの棒。
こっちのほうがわかりやすく、かわいいですね。
(平昌オリンピックってまだ工事が一部停滞しており、
無事完成するのでしょうかね?
何か法則が働きそうで怖いのですが)
佐野オリンピックロゴも見る
※ 左は1964年、右が2020年
ついでに佐野氏制作のオリンピックロゴを見ていきます。
こちらも「元絵」があって、そこから試行錯誤しています。
佐野氏はTについて次のように語っています。
「Tokyo(場所)・Team(結束)・Tommorow(未来)」
3つのメッセージを持たせることで、
東京という街(あるいは日本という国)の、
世界のスポーツ祭典にかける意気ごみを表現した。マークは固定された一つのビジュアルではなく、
バラバラに分割できるようになっている。
一定のルールのもと分割されたパーツを様々に組み合わせて、
各種メディアに展開することができる。さらにオリンピックとパラリンピックの両大会が、
かなり完璧に「対」になるようにデザインされている。
オリンピックエンブレムの黒の部分を白に変えると、
パラリンピックのエンブレムになる仕組みだ。
意味をくみ取ると、確かにこのデザインにした意味はあるのだなあと。
佐野さんなりに色々考えた結果なんだろうなあと思うのです。
ただ……一度パクリと認識された後、
佐野氏の「職歴」を見ていくと、ほかにも似たことをしていた。
トートバックはトレース(そのまま写すこと)を認めてしまった。
ほかに佐野氏の奥様が部下に責任を擦り付け、逃げようとした。
ここらが決定打となり、エンブレム使用中止となってしまった。

ここで私の感想を述べます。
イラストだけ見ると、バランスが悪いなあと思うのです。
どうせなら左側に金があるなら右側は赤丸でなく銀をもってきて、
Tの下側に日の丸を持ってきたほうがよかったんじゃないか?
私なら○はTの下側にもってきて、銀色を金と対になるよう作成します。
でもインパクトを考えたら佐野氏のほうがよいのかなあ。
多摩美術大学が教える内容って
※ 多摩美術大学の卒業制作として優秀賞をもらったイラスト
私が不安に思うことは多摩美術大学のレベルです。
佐野研二郎氏も永井一史氏も共に多摩美術大学出身。
永井一史氏に至っては教授です。
多摩美術大学がイラストやデザインに関して、
凄いんだろうなあというのはわかるのです。
一部の大学に換算すると、
多摩美術大学は早稲田や慶応レベルだそうです。
ある意味美術の難関大学と捉えてよいのですね。
参照:美大のレベル
ただ、二人の仕事はデザイナーというより、
元絵からそろばんをはじいて商品を作る人だなと思ったのです。
すなわち、デザインは単なる商品でしかないという考え方です。

上記画像は佐野さんが「元絵」に対し、
「企業側が儲かるように」変えた芸術商品です。
すでに儲かっている、評価が良いものを下地において改造する。
元絵を見て形を整え、一部のデザインを削り、追加し……
結果として企業側がお客様に対して「シンプルでよい」
と思わせる商品に成功しています。
結果、ビジネスデザイナーとしては一流と思うのです。
一方、自分で初めから創る作品は確かに素晴らしい。
しかし、評価を受けなかったら気持ちが沈みます。
デザイナーとしてお金をもらう以上、
最初から作ったけれど、不評だったらへこみます。
また、デザインを通して「売り上げ」につながらないと、話にならない。
それなら初めからすでに高評価をいただいているデザインを元に、
四則演算を行ったほうが、高評価とまではいかないけれど、
ある一定の評価を受けるのです。

上記イラストは佐野氏が作成したロゴを元に編集し、
佐野氏の行為を風刺しています。
2ちゃんねるで誰かが創ったもの。うまい。
なお、評価なんかどうでもいいという気持ちで描いた場合、
岡本太郎さんのような醜くてぐちゃぐちゃで、
吐き気を催す気持ち悪いデザインになります。
岡本さんは「売る気がない、評価される気がない、
ただ魂の爆発を形にしただけ」述べているのです。
企業側からしたら、これも困るというもの。
何しろ売れなければ話になりませんから。
多摩美術大学、大丈夫か?

美術大学の公式HPに掲載されている絵において、
いわさきちひろさんの絵や構図をパクっている。指摘がなされました。
絵の作者である金田沙織さんが述べています。
卒業制作の一環として作成した絵なんだそうで。
後で「いわさきちひろ氏の絵が技法を参考にした」述べています。
一方でいわさきちひろ事業団は抗議しています。
私として思ったことは、いわさきさんの絵を参考にすること自体、
問題はないと思っているのです。
いわさきさんに敬意を持っていたんだなあと感じるので。

ただ、構図やモチーフの一部がそっくりそのままだと、
絵の文脈上(絵脈)何かちぐはぐになってしまう。
絵に描かれるものは全て意味があると私は考えています。
「なぜ風船を描いたのか?」「どうしてリボンを付けたのか?」
ここらをきちんと問いかけ、答えることによって、
イラストに説得力が増すと考えています。
ただいわさきさんの絵を見て「これ入れたいな」思って入れるだけだと、
「イラスト全体において、これはどういう意味を持つの?」
聞かれたとき、すぐに説明できるのでしょうか?
結果、単なる模写になってしまい、独自性が見られなくなる。
同時に「この絵なら金田さんじゃなくても描ける」
思われてしまい、多摩美術大学のレベルが低く見られるのです。
私はそこが大きな問題だと思っています。
依頼側にも問題あり

次の記事を読むと、デザインを依頼する会社にも問題があります。
引用記事:パクリとオマージュの境界線
一方、“パクリ”作品や“コピペ”作品を
次々と世に出し続けているメディア側の責任はどうなるのだろうか?「ひと言で言えば、“客をなめている”のではないでしょうか。
今で言うと、『「進撃の巨人」っぽいのを作ってよ~』的な、
○○っぽいもの、昔流行ったアレ、
みたいな仕事の発注ばかりがきています。メディア側がきちんとコストや時間をかけて、
オリジナルの商材を育ててこなかったツケが、
“パクリ”問題として浮上してきているのかもしれませんね」
これが事実だとすると、依頼する企業側も事前に知っていた。
彼らにとって良いイラストは「パクって使うべき」
という考えがあるのでしょう。
良いイラストは衝撃を与えます。すなわち「データ」があるわけです。
だから似せることによって、大体似たようなデータを得る。
企業側としては未知なるものに挑戦するより、
すでに出ている実証データをもとに作成してもらったほうが、
反応などがわかってやりやすいのです。
多摩美術大学が独創性より、
元絵を数学処理して芸術商品を出す理由も、
依頼側(企業)が求めているからだと考えています。
私が絵を描くとき
※ 元写真を元に一部の難民を風刺した画像。
子供を描くことで衝撃を与え、毎日新聞を通して英国で話題になった
私が絵を描くとき、まず先に「演出」ありきなんですね。
構図というより描きたいシーン(演出)がある。
シーンを脳内で再生し、すぐさまメモする。
そしてメモした情報を元に書き、足りない情報はネットで調べる。
調べて模写した後、肉付けを行っていくのです。
たまあに敬意をこめてわざと構図を似せることもあります。
似せたときは後できちんと書きます。
「私はこの絵に敬意を持ったから構図などを似せた」
似せる場合、なるべく元絵がわかりやすいように工夫します。
書き手として、「こちらの作品を見た人は、元絵もぜひ見てほしい」
気持ちがある(私は少なくともそう思っている)
元絵を知って自分の書いた絵を見比べることで、
芸術に対する楽しさを味わってもらう。
ただ、元絵には「著作権」もあることを忘れてはならない。
自分もこの件を通し、権利に関する甘さを反省しました。
※ 急きょ相棒と自分で描いた絵。何を思い浮かべるだろう?
ついでにそっくりな絵は描いても面白くないんです。
余計な苦労や膨大な時間をかけてでも、
演出や構図を試行錯誤し、創ったほうが面白い。
ただ、すべてオリジナルでやろうとしても、
脳みそから出る情報はなかなか形にできないものです。
だからこそ、脳みそがもたらすイラストに近づけるよう、
似たような構図やデザインを真似するのはありです。
ただし、あくまでも脳内イラストの参考程度にとどめておくこと。
パクリはどうして罪なの?
※ 娘のイラスト、オリジナル人物を描いた
もちろん、法律での問題はありますよ。
でも法律がなければパクってよいのかというと違う。
はじめは私(や相棒)の絵もパクリだらけです。
もちろん、それで仕事をするわけではありません。
あくまでも自分の絵力を上達させるために、パクっていました。
しかしパクリは画力の成長につながりません。
何しろただ書き写すだけなので、試行錯誤をしなくてもよいのです。
イラストを通し、苦悩し、試行錯誤して出てきた絵。
作品は描き手の「人生を凝縮したもの」です。
そこに感動し、「進化したい」という心が働きます。
パクリは一定の感動は呼ぶものの、
「より激しく自分を進化させたい」と思わせない。
むしろ退歩だから罪なのではないかと考えています。
終わりに
3時間ほど考え込んでしまいました。
結局パクリは人類の退化と限界を見せているだけ。
今回のロゴ問題は私にもよい教訓や反省を得ました。
これを通し、覚悟をもって気を付けたいと思っています。
