おはよう、しゃしゃ。
ウィンドウズ用パソコンを持つ人は水曜日、
とても待たねばならぬ時期が来る。
ウインドウズアップデートを通し、
「ああ、信じる者は救われるってこういう意味か」と分かった。
長時間のウィンドウズアップデート
突然失礼します、マイクロソフトサポートです。
その後Windows10のご様子はいかがでしょうか?
もしサポートが必要な場合はお気軽にご相談ください。 ^NMY— マイクロソフトサポート (@MSHelpsJP) July 22, 2020
ウィンドウズアップデートは簡単なものもあれば、
長時間要する大規模なアップデートもある。
私の家は二台パソコンがあり、一台は8GBノートパソコン、
もう一台は32GBのデスクトップパソコンだ。
毎週水曜日になるとウィンドウズはアップデートを行う。
朝6時にパソコンをつけ、最新版大規模アップデートを行った。
午前10時になってもあるところで止まる。
そこで右クリックを押してタスクマネージャーを開こうとした。
するとパソコンが固まってしまった。
背景は真っ白、画面はうんともすんとも言わない。
そこでパソコンを再起動あるいはシャットダウンをしようと決めた。
シャットダウンに決めて、Ctrl+Alt+Deleteから無理やり、
パソコンをシャットダウンした……。
シャットダウンのマークは出るが、
パソコンが真っ暗になって完全に電源が落ちる状態へとならなかった。
私はスタートボタンを長押しした。無理やりシャットダウンしようと企んだ。
パソコンはいったん落ちる。ふう……10分後。
そんな馬鹿な……ことあるのか。
30分経ってもシャットダウンが終わらないので再びやった。
数分後に立ち上げたとき、やっぱりスリープ状態のままだった。
ぐるぐる回るシャットダウンのお知らせ。
右クリックなどを押しても効果がない。
ここで私は覚悟した。
よし、パソコンに任せよう
結果、午前11時30分後にようやく完全シャットダウンとなった。
朝6時にアップデートが始まり、終わったのが午前11時30分。
5時間も費やすとは思わなかった。今まで長くて3時間ほどだったから。
完全シャットダウンしてから数分後に再びパソコンをつけ、
後はすんなりサクサクダウンロードできた。
心配でマイクロソフト公式ツイッターからも返信が届いた。
今日起きたウィンドウズ10大規模アップデートにおける、
自分のあたふた具合と通して気づかされたんだ。
救われるという言葉は省いていい。
「信じる」の本質がよくわかった。
キリスト教ではない神の定義
返信ありがとうございます。
現在は問題がなさそうとのこと、承知いたしました。
何かお困りのことがあれば、どうぞお気軽にお問合せくださいね。 ^NMY— マイクロソフトサポート (@MSHelpsJP) July 22, 2020
信じるものは救われる。
キリスト教でキリストさんが述べた言葉だ。
参照サイトによると、誰を信じるかはイエスを信じるそうだ。
ここで私なりに神の定義をしておこう。
例えば私が今使っているパソコン、友達や部下、道具、器具、
世の中の大いなる流れ……「自分以外の対象」を神と定義する。
ウィンドウズ10大規模アップデートにおいて、パソコン本体も「神」と定義するよ。
神は基本「物事をよくする」ために存在している。
同時に私は神をある程度操作できても完全に支配できない。
パソコンにおいて、シャットダウンや再起動、
右クリックからタスクマネージャーを選ぶ、
スタートボタン長押しなど「ある程度まで操作」はできる。
「今すぐパソコンを止めろ」と口頭で命令しても、
パソコンは「処理に必死」で即停まるわけではない。
「素早くアップデートしろ」といっても、
4時間以上費やすように「すぐ」できるわけではない。
自分の命令通りにパソコン(神)は動いてくれない。
なので「支配」はできないと書いた。
人も同じだ。指令を送ってある程度、人を指導(操作)できる。
ある程度までなら思い通りに動かせられる。
完全に「何時何分までにこういういい方であれをしろ」と、
自分の意のまま相手を操作するまではいかないしできない。
完全に相手を意のまま操る、思い通りにする状態を「支配」と呼び、
ある程度(およそ2割)ならできる状態を「操作」と呼ぶ。
参照:「信じる者は救われる」
信じられない理由はスケジュール思考にあり

さて私は焦った。なんで3時間もたっているのにアップデートが終わらないのか。
もしかして壊れたのか。何とかしたい、何とかしなければ……
当時の自分を振り返ると「スケジュール思考」という言葉が当てはまった。
私の中には「何時何分くらいまでに、これをしなければならない」
一つの課題ができており、時間までにやらねばならない。
時間を過ぎると自分にとって「生活習慣が崩された」ため、
「崩した原因(今回だとパソコン)」にいら立ちを募る。
くわえて「ああ、遅れた、やばい」焦りも生まれる。
→強引に解決しようと乗り込む→ややこしい問題が生じる
→大変後やむ(なんてことをしたんだ、自分は)
上記の流れに「信じられない」だけでなく、
「裏切り」や「罪と罰」についても触れている。
スケジュール通りでない状態に苛立ち怒りを募り、
強引に解決しようと動く展開までを「信じられない」と定義。
信じられないを「神様(パソコン)」側から見ると、
お前(私)はワイのこと、信じてくれへんのか(悲)
相手の立場から見ると私の行為は「裏切り」にあたる。
強引な解決から、さらに問題がややこしくなって、
「なんであんなことをしたんだ」と悔やむ状態を「罪と罰」と定義する。
「私の介入」が「心」を裏切ってきた!

ウィンドウズ10大規模アップデートのおかげで、
「信じる」の意味に気づかされた。
パソコン君(神)の動きにただ任せ、自分は待つだけ。
余計な介入をせず、終わるまでじっと待つだけ。
スケジュール思考をぶっ壊してでも、
パソコン君の頑張りを邪魔せず、処理が終わるのを待つ。
結果、大規模アップデートが終わって、
「罪と罰+後悔」意識を抱かず「何事もなく」終わる。
何事かあっても最後はパソコン君の仕事を邪魔せず見守るから、
ちゃんと仕事を終えて”ほっ”とする。
まさに「救われた」状態だ。
信じるものは救われる。体で理解できた。
自分の中にあるスケジュール思考を優先させて、
余計な介入を行うと「不都合な結果」につながる。
神の対象をパソコンから人間や自分の心など範囲を広げてみよう。

例えば「こうなりたい未来」があるのに「現実はならない」状態。
心は「こうなりたい未来」に向かって動いている。
しかし私は「本当にそうなりたい未来に向かっているか?」
ちょっとした出来事に翻弄され「こうじゃだめだ」と勝手に介入、
結果「こうなりたい未来」が遠ざかっていく。
「こうなりたい未来」の部分に「お金」や「パートナー」といった、
自分にとって「欲する目標」を入れてみよう。
いやでも気づくはずだ。
「自分がいかにスケジュール思考に満たされ、
心(神)の仕事へ苛立ちそして怒りを抱き、余計な介入を行って、
”なんでこんな現実になってしまったのか!”悔やむ姿」を。
僕にとっての「信じる」は仏教の考え方だった

「信じる者は救われる」という意味について、
仏教方面のサイトを調べたところ、私と全く同じ考えを持っていると分かった。
信じることは、自分のすべてを相手にゆだねること、任せきること。信じたらその先は、何が起ころうとその現実を受け入れること。それが信じるということになるのでしょう。後になってガタガタ言ったり、誰かのせいにする。それじゃあ、信じたことにはならないでしょう。信じる、任せきる。
引用:信じる者は救われるか?
お寺版「信じるものは救われる」において、
信じるの定義と意味が「相手にゆだねる」であると分かり、
仏教の考えを自分は身をもって実感したんだと悟った。
心を主体に体と脳は心を支える

「こうなりたいなあ」という未来に対し、
自分は焦りや不安があっても一切構わず無視を決め込む。
心にとって「これをやりたい」思ったものを、
きちんと実行できるように計画や戦略を立てる。
戦略に沿って後は純粋に動く。悩みや不安があっても無視して心の指令を行う。
「信じる」とは「余計な介入をしない」であり、
余計な介入をしないためには「スケジュール思考」から脱却し、
焦りや怒りに基づく行動を行わない生き方といえる。
パソコン一台で「今の自分が置かれている問題」に気づいた。
世の中、特に予想外の出来事は「今の自分が置かれた問題」に、
気づくために起きているんだね。
