おはよう、しゃしゃ。
昨日、ちらっと昼になんでも鑑定団の再放送をやっていた。
鑑定団はめったに見ないのだけど、
お昼ちょっと出かける前にテレビを入れていた。
すると女性芸術家の片岡球子さんの絵を鑑定してもらった。
結果は贋作で専門家がきちんと根拠を伝えたうえで、
「もし本物なら1500万円を越えるもの」述べていた。
鑑定団を見た後に思ったよ。
「鑑定って素晴らしい仕事なんだなあ」
本物と贋作の違い

※画像は鑑定団HPから
深く覚えてはいないのだけど本物と贋作の違いとして
- 本物は岩絵具を使っており贋作は油絵を使っている
- 本物は富士山に着物を着せるようなこだわりがあるが偽物は手を抜いている
他にも数点あったのだけど、とにかく偽物は本物が抱くこだわりがなく、
むしろ手を抜いているの丸わかりと評価を下し、1000円と鑑定された。

※本物片岡の富士山、画像元はこちらから
鑑定団の凄さを感じたね。
鑑定する側も手を抜いていたら贋作を本物と捉えていただろう。
絵具の具材をはじめ「片岡球子の特徴」を徹底的に紐解き、
「彼女ならこれを選ぶ/選ばない」をつかんだからこそ真の価値を提供できたのだ。
芸術家という仕事は鑑定士がいなかったら、
どれだけ自分がそこにこだわりを持ち、尊さを持ったうえで取り組んでいたとしても……
「ふん、きれいじゃん」や「きったねーな」と、超単純かつ適当な評価を下され終わるだけだ。
真の価値を知られないままひっそりと死ぬだけだ。
目の前に真の価値たる工夫や哲学……物語がある。
物語を気づかれないまま「うまい/へた」だけで評価される。
作り手だからこそ、一つの作品にどれだけこだわったか。
どんな姿勢を貫いて描いたか。どれだけ手を抜いたか。
どんな工夫を費やしたかなどすべてがわかる。
しかし鑑賞者は作り手の工夫など知る由もなく、
ただ目の前にある完成品を見て「うまい/へた」と評価するだけ。
単純に見る側と様々な想いを込めて作った作り手の中間を受け持つ役割が鑑定士だ。
作り手がどんな工夫や配慮、生き様を一つの作品に込めたのか。
作り手が直接説明できるものではない。
第三者が説明して初めて「へえ、そんな工夫があるのか」気づく。
片岡球子の凄さは意地
鑑定団でも紹介していたが片岡球子は北海道で生まれた。
最初から最後まで自分の個性を全く変えず貫き通した。
もちろんはじめは多くの人から見て
「バランスに欠いた絵」であり「へたくそ」といわれた。
もちろん芸術展でも落選の日々。
何度も落選したけれど画風を一切かえず、自分の信念を徹底的に貫いた。
絵としては岡本太郎さんに近いタイプであり、パッと見た感じ「下手」といわれても仕方ない。
本当の評価は「うまい/下手」を深堀したところにある。
うまい/下手はあくまでも入り口であり、
さらに深く細かく作品要素一つずつ分解して、
初めて「あ、こんな工夫や演出を凝らしていたのか」気づく。
片岡さんの先生にあたる人が
「他人からあーだこーだ言われてもいい。自分のやりたいことを貫け」
片岡さんはますます精密な部分と大胆な部分を出し、
芸術展にどんどん入賞されたという。
私がやっぱり「すごい」思った部分は意地だ。
どれだけバカにされようが意地を曲げずに貫き通した。
妥協してみんなと同じ道を行く方法だってある。
だけど彼女は貫いた。頑固なまでに貫き通した。
バッシングされると生き様も同時否定された気分になるが、
ひたすら「へたくそ」を追求し、ついに個性となった。
「へたくそ」も見た目での評価であり、
実はものすごくこだわりがあるところ、省略しないで絵の中の主役をいたわるところ。
※主役は人だけでなく山や海なども示す
ちなみに片岡球子さんは「美しい絵が全てではない」と、
岡本太郎さんと似た信念を抱いていた。
だから力強く「異質」な絵に仕上がるのだな。
周りからどういわれようとも貫き通す覚悟そして
片岡球子/梅 pic.twitter.com/fDOoayiyAA
— 心にしみこむ日本画集 (@japon_ayano) February 23, 2018
鑑定団で片岡球子の生い立ち及び本物/贋作の違いを知った後、
「最初から最後まで自分を貫き通す姿」は大切だと教えられた。
ただ貫けばいいのではない。
作品内の存在に対する「敬意」も教えられた。
例えば鑑定団で示した富士山だと、
贋作は富士山周りの木々について「いい加減」に描いている。
いい加減とは単なる作業だ。
贋作者にとって富士山周りの木々は「単なる演出的存在」であり、
「片岡球子が考えていた真の狙い」には気づいていなかった。
片岡球子にとって周りの木々は「着物」だ。
富士山を「尊敬すべき対象」として扱い「素晴らしい人間」のごとく扱った。
ただ絵をコピーするだけなら適当になる。
小道具や演出一つ一つにも「どんな役割を込めているか」
はっきりしたうえで描いているからこそ、価値に差が生じる。
そして真の狙いに必ず気づく人がいる。
いるからこそ手を抜かないでいると確実に誰かが見つけてくれる。
贋作を買った人は片岡球子の生い立ちなどを調べていたと思う。
じゃなければ50万円といった額など出せない。
生い立ちを知って絵とコミュニケーションを図らなかったのかもしれぬ。
絵とコミュニケーションを図る存在が鑑定士であり、
わずかな演出や配慮から「本質」をたたき出すのだ。
鑑定という仕事が「素晴らしい」思ったよ。
鑑定団に見る「絵の鑑定ポイント」
なんでも鑑定団で市川海老蔵が
その場でサインを書いて鑑定して
もらったら100円だったことにブチ切れて
「俺は人間国宝だぞ!!!」と言った回— 存在しない回bot (@naikaibot) March 13, 2020
絵の鑑定について道具側面はわからない。
鑑定団では絵具一つでも油絵か岩絵の具かという、道具による違いは私にもわからぬ。
素材については専門家に任せる以外ないだろう。
ただ一つ私たちでもわかる情報がある。
作者の生い立ちと性格から生じる理念だ。
ある作品に対して「この作者の生い立ちや傾向からして、
こんなところで手抜きをするだろうか?」
手抜きを感じたらたとえ本物でも価値がなくなり、
偽物であっても価値を抱いてしまうね。
生い立ちと特徴、正確を通して作家の理念をつかむ。
理念がわかれば世界観と「演出の狙い」にも気づける。
鑑定士は富士山に対する作者(片岡)の理念から、
「彼女にとって木々は着物にあたる存在。手抜きをするはずがない」
はっきりとした指標を用いて「偽物」と診断できる。
技術的側面がわからなくても作者の性格や特徴から、
理念なら調べていけば追いかけられる。
作者の理念に照らし合わせて「ここを手抜きするか?」検討するといい。
手抜きをするなら「どこに作者は力を入れているのか?」
すると本来入れるべき場所に手を抜いていたら、
「あ、これは偽物」と気づくはずだ。

片岡さんの理念は別の人でもこういう形で生じる。
TOKIO長瀬君はカレーを作っていた。芸術と料理は違うけれど、
おいしいカレーを追い求める姿は芸術家だった。
かなり似ている部分があるのでぜひ読んでほしい。
