おはよう、しゃしゃ。
ひとつ尋ねたいんだけど、私の記事って問題なく読める?
はてぶに上がっていた、あるブログを読んでいた。
(あるブログは日本のリベラルと右翼に関する記事)
現代文の評論分野に出てくる政治用語の連発と、
やたら出るカタカナ英語(ネオリベラリズム、オルタナなど)が、
用語の説明もなくちりばめられていて、
「読み手に何を伝えたいのか、よくわからない」思ったよ。
しゃしゃは記事を書いている?
書いているなら「自分もこうなっていないだろうか?」
ちょっと考えてみてほしい。
記事を書くとき、私が心がけている項目をいくつかあげる。
「いいなこれ」思ったら参考にしてね。
入門0:未来の自分から読む今の記事
未来の自分が今書いている記事を読むと、
「あの時の私は何を言いたかったのか?」思うよ。
他人に読んでもらって訂正した後も、
「あの時の俺は何を言いたいのか、わからない……」
未来の自分が今の記事を読み、
「ちょっと何を言いたいかわからないなあ」思ったとき、
しゃしゃは成長している。
ただ「どこが」わからないか。
きちんと紙に書いたうえで原因を追い求めよう。
入門1:読者は有能、でも無知
しゃしゃは優秀で、たくさんの本を読んでいると思う。
世の中をある程度見渡しており、難しい本も読んでいると考える。
難しい本を読んでいるからと言って、
「新しい用語」を知っているとは限らない。
私は知っていても、しゃしゃは知らないかもしれない。
反対にしゃしゃは「当然」として知っていても、
私には初めて出会った単語でわからない。
ネットで単語を調べると、大体答えは載っている。
(一部、ブログ記者が造った言葉もある)
一応、中学校まで習った言葉は「常識の範囲内」と置いて、
高校で扱う用語、とりわけ「難しそうだなあ」少しでも感じたら、
キーワードに対して補足を付け加えよう。
例:オルタナ右翼(極限保守思想、例外を認めない保守思想)
私がキーワードに対して「わからない人もいる」
至った発想の一つがアフィリエイトだろう。
アフィリエイト:広告主が出すプログラムを私が紹介し、
取引成立したら、手数料をいくらかもらう儲け方
面倒だからという気持ちで省いている箇所もあるけれど、
初めて商品を買う人にとって、戸惑うかもしれない。
戸惑いをこちらで解決できたら……
今まで自分がしてきた行為を別な何かに当てはめた結果だろうね。
表現は例外
小説や漫画、物語は例外としてもいい。
わかりやすく表現する文学もあれば、
「あえて」わかりにくい表現を目指すのもいい。
わかりやすさはもちろん、わかりにくさも芸術の一つ。
「わかりにくさ」が物語の演出であり伏線でもあるなら、
むしろ「謎を出す」演出へつながるよ。
ただ、何も考えていないでわかりにくいなら、
わかりやすい表現を心がけたほうがいい。
読者からするとストレスでしかないからね。
入門2:まず自分、次に読者
私は人さま(しゃしゃ)のために記事を書いているのでなく、
「自分が気になった疑問」を解決するために記事を書く。
「疑問は調べればいいだけじゃないか?」思うでしょ。
私が抱く疑問は同時にしゃしゃも抱いている。
だからここを読んでいるわけだ。
今、しゃしゃが読んでいる記事はブログを含む、
人へ読んでもらうための文章を書いている際、
疑問に抱いた項目を解決するために訪れた。
私が抱いた疑問はしゃしゃも抱いている。
しゃしゃが抱く疑問を私が目にした瞬間、私も抱く。
背景にある考えはオポノポノだ。
オポノポノによると、世の中に起きるあらゆる原因は一つ。
潜在意識の記憶が再生している状態。
「気になった」ら放置するのでなく、
原因はもちろん「自分の気持ち/感情」を観察しなさい。
「知らない間に染まった考え、生活習慣」がある。
知らない間に染まった考えや習慣に気づいたら、
次も同じ生き方を心がけるか、
新しい生き方(生活習慣、価値観、考え)に沿って生きるか?
初めて「生き方を変える選択肢」に気づくんだ。
詳しい内容はこちらを読んでほしい。
ヒューレン博士が提唱するオポノポノは簡単だが、
本質(体・心から理解)をつかむのに時間を要するよ。
くわえて「自分にとって嫌だ」と感じる部分と向き合うからね。
入門3:記事を書いたら終わりでない
しゃしゃは記事を読んだ後、どんな行動をとる?
たいていは閉じるか、ほかのサイトへ向かうだろう。
読者としては当たり前の行動だ。
書き手としては「次の展開」を考えねばならぬ。
漫画でいうと、記事は読み切りではない。
続きがある週刊/月刊雑誌だ。
漫画や小説はもちろん、生活や音楽、アイドル系の雑誌など、
どうして「また来週/来月/続き」を読みたくなるのだろう?
「当たり前じゃん」思ったらチャンス。
当たり前の部分を問いかけてみよう。
当たり前を問いかけた先に、
「これは自分の記事にも応用できるのではないか?」
アイディアがひらめくからね。
漫画や小説は「続き・次回予告」があるかわまだわかる。
雑誌の中には予告を書いていないのもある。
なぜ予告はないのに読みたくなるのか?
わかっている項目として「来月○日に発売する」事実だけだ。
読み手の中にどんな事情があって、
「来月も読まなければ」思うのだろうか?
雑誌のどこかに「また来週も読みたくなる理由」があるわけだ。
例えば私が読んでいる音楽雑誌「BURRN!」
私は洋楽ヘビーロックに大した関心がない。
音楽用語はもちろん、ロックの歴史など知らない。
Bayfm土曜日PowerRockTodayで伊藤正則さんの話を聞くうち、
気づいたら「BURRN!」に手を出していた。
読んでいてわからない分野が多いのだけど、
雑誌が販売されたら必ず読んでいる。
今でも私は「BURRN!」を読み続ける理由がわからない。
必ず巻末にある伊藤さんの言葉を読んでいる。
もしかすると伊藤さんの言葉を読みたくて、
「BURRN!」を読んでいるのかもしれない。
「また」記事を読んでもらう理由を創る。
考えるよりは適当に作っておくといいのかもしれない。
私の場合、インスタに掲載している画像を載せている。
いつも訪れる方の中には「新作イラスト」を見たくて、
ここを訪れているのかもしれない。
私には理由がわからないけれど、
「また来たくなる」仕掛けはしておいた方がいい。
記事を書くメリットで病みつきに
先ほど私は述べた。
「また」記事を読んでもらう理由を創る。
考えるよりは適当に作っておくといいのかもしれない。
記事を書いて、初めて私は気づいた。
「あちこちに次も読みたくなる仕掛けをしておけばいいのか」
私にとって記事を書く一番のメリットは
「次に自分がしたい作業へ気づく」ところ。
しゃしゃはどうだろう。
記事を書いて器を広げるには
記事を書く目的は「書きたい衝動」に従った結果だろうか。
読者に何か商品・サービスを購入してもらうためか。
色々あると思う。
記事を書く目的を広げるなら、自分の考えを広げる。
例えば自分がただ書きたいだけだから書く場合、
読者など一切考えなくていい。
読者が読めないと文句を垂れようが、
「いいんだよ、自分さえわかればいいんだから」で済む。
読者に読んでもらう記事を書くなら、
「どこをどう直せば読めるブログになるか」考える。
更に範囲を広げる場合、記事を読んでいない人にも伝える。
しゃしゃが記事を読む⇒しゃしゃが第三者に情報をかいつまんで伝える
結果としてどの範囲まで考えられるかによって、
記事の書き方は変わってくると私は考えるよ。
おまけ:シン・ゴジラ実況アカウントが面白い
■シンゴジ実況2017 実施要項
・本アカウントは映画「シン・ゴジラ」の出来事を、時系列ごとにリアルタイムで投稿
・最初のツイートは11/3(金)8︰30に行う予定
・引用、返信はご自由に
・ハッシュタグは #シンゴジ実況2017
・Twitterer各員の健闘を祈る
以上— シンゴジ実況タイムライン (@shingoji_tl) November 2, 2017
映画、シン・ゴジラが放映するそうだ。
映画の時系列に合わせて、疑似的にリアルな状況を作っている。
<緊急速報>
東京湾アクアラインで水蒸気爆発が発生しました
今後の情報に注意してください#シンゴジ実況2017— 確実な情報を伝える内閣府広報 (@hasegawakanbou) November 2, 2017
映画の世界だけど、決して映画だけで終わらせない。
何とかして「現実社会」に影響を与えられないだろうか?
ネットだけでも衝撃を与えられないだろうか?
NHK「羽田沖爆発か」
スッキリ「ここで報道フロアから伝えてもらいます」
ビビット「羽田沖で、爆発でしょうか」
モーニングショー「羽田空港から伝えてもらいます」
とくダネ「こちらはお台場から羽田の方に設置したカメラです」
テレ東「そこでこの青汁!!」#シンゴジ実況2017— 名状しがたい非魔神のようなもの (@NAGISA1804) November 3, 2017
強引に「ちょっとでも」面白いことができないか?
シン・ゴジラ大喜利に考えさせられたよ。