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※ 法月仁さんのお誕生日なので | 鉄工凡人 [pixiv]
ども、しゃしゃ。斎藤孝氏の本を読んだ。
「語彙力こそが教養である (角川新書)」というタイトルだ。
語彙力や読書、文章に関する本を読むたび、
「賢ちゃん、君の語彙力はまだまだ貧困だね~^」
挑発され、イラッとするんだ。
斎藤孝氏の深い考え

先生の深い考えとして、まずは相手を挑発する。
すると「あ"? だったら語彙力を豊かにして、
上品かつユーモアあふれた言葉で貴様を罵倒してやるよ」
読者が挑発に乗り、むきになって勉強をする。
読書などを通して語彙力を上げ、知的レベルを上げる。
結果、より幅広い考えを持って、世の中を見渡す。
このような読者こそ、彼が望む人間像と考えている。
脱線:言葉の本質と視点

言葉の本質的役割なんて、「自分の意見を相手に伝える」
ための伝達手段にすぎないからね。
そこに「芸術・商売・科学・殺人・洗脳」といった、
他分野の視点を入れた結果……
単なる伝達が芸術や暗号、時には殺人を行う武器へと変わる。
(例:言葉による陰湿ないじめで、人を自殺に追い込む)
そこに言葉の怖さがあるんだね。
マスコミは言葉をはじめとする情報と逐一向き合う。
だから恐ろしさも武器も理解しているんだ。
どの部分が読者を見下しているなあと考える?

「語彙力こそが教養である (角川新書)」は、
語彙力を上げるための規則や方法について触れている。
しかし行間から、彼の気持ちが透けて見える。
「語彙力が少ない人、名著や名文を引用しないで話をする人、
社会人になっても、古典や名著といった固い本を読まない大人……
彼らの話を聞いたり、レポートを読んでもらったりすると、
相手の共用レベルがわかってしまう」
確かに言いたい気持ちはわかる。
しかし、彼が落胆する表現こそ、影からと見下し、罵倒しているのか?
つい、思ってしまうんだ。
「香炉峰の雪と言ってすだれを上げられないような人とは、
お話にもならない。今すぐ名著や古典を読んで、小学生からやり直せ」
彼の文体からにじみ出る人間性として、
名著や古典を読まない人間は知恵遅れとでも言いたいのだろうね。
馬鹿にされて「馬鹿」とやり返すのもいいけれど、
それだとさらに上から見下されている感じがするから、
やっぱり語彙力を高め、知的なやり方で彼に言い返したいものだ。
批判と罵倒を区別できない人は話にならない

私も時折批判される。罵倒もされることもある。
批判は大いに考えるんだよ。
例えばある人から以下のように指摘される。
「斎藤孝の本を読んで、馬鹿にされた気分って書いてあるけれど、
お前の文章は論理が破たんし、日本語の使い方がおかしい」
すると考えるんだ。
「批判は今後の自分にとって、どんな教え。気づきがあるのか?」
相手を罵倒せず、読んだうえで自分が思ったことを書く。
そこには意味があるから、考える良い機会となっている。
しかし「馬鹿」「屑野郎」「くたばれごみ」
といった「罵倒言葉」には何の意味もない。
書き手がただ気持ちよくなるための行為だからね。
しゃしゃが罵倒されたとしても、気を落とす必要はない。
罵倒は基本、無視でかまわない。
しかし批判は「未来の自分にどんな教え・気づきがあるか」
将来を考える際のきっかけと思い、自問自答してみよう。
最後に斎藤孝氏へ謝罪
今回の文章、かなりノリノリ法月な気持ちで書いてしまいました。
斎藤先生の本を読んで「馬鹿にされた」印象を持ち、
怒りの気分で記事を書いたら、すらすら言葉が思いつきました。
彼の本を読んだからと言って、語彙力が上がるわけじゃない。
しかし、人生に何かしらの行き詰まりを感じたら、
斎藤孝氏の本を読み、語彙を基本に文章や会話を磨くといいよ。
