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アニメチェンソーマン微妙に見る制作側や監督と視聴者の求める世界

おはよう。アニメチェンソーマンが「微妙」と言われている。

視聴者が求めるチェンソーマンと、
制作側が与えるチェンソーマンの解釈に不一致が起き、

「面白いんだけど、求めているものではない」が起きている。

自分も作る側であり、創る側である以上見る側がいる。
見る側に合わせていくべきなのか。
作り手のエゴを追求すべきなのか。

と言った単純なところでなく、深いところを見つつ、
適した言葉を引き出していきたい。

 

チェンソーマンの面白いところ

私は原作をすべて読んでいないが、最終回近辺をきっちり読んでいる
第二部ではジャンプラで連載しており、時々読んでいる。

それは置いといてチェンソーマンの面白さは勢いだと考える。

主人公デンジはあまり教育を受けていない青年であり、
自分の欲望や考えを適切な文章で表現できない、単語や動作一つで表現する青年だ。

戦闘もあまり頭を使って戦うスマートさでなく、
血みどろの泥臭さそして勢いをつけて戦っている

もちろん最後になるとデンジも頭を使ってラスボスを倒していくんだけど、
勢いたっぷりに暴れるところとデンジのおバカっぷりを見るのが、
チェンソーマンの面白さでないかと思うんだ。

……マキマさんの恐ろしさとゲスな行為に震えるのはわかっているんだけどさ。

 

制作側の狙い

リアルサウンドにインタビューがあった。

脚本かの瀬古浩司さんはおっしゃった。

チェンソーマンの漫画を読んだとき、
「映画的な漫画。モノローグは少なく、カメラワークは時にダイナミックで繊細、
画面には常に空気が流れている。良質な2時間のアクション映画を観ているような感覚」

そして監督は「写実的なアプローチでいきたかった」と述べている。
写実的なアプローチをとるため、役者にも徹底指導を行った。

アニメ風の誇張でなく実写風のぼそぼそっぽさ及び大げささのない演技などだ。

後上記ツイートに監督のインタビューをまとめたツイートがあった。
アニメや漫画的表現を創るのでなく、あくまでも実写に近い作りを心掛けた

記事:『チェンソーマン』はなぜ“実写映画的”なアニメになったのか 脚本・瀬古浩司インタビュー

 

視聴者側が求めるチェンソーマン

制作側が出したい表現に対し、主にマンガを読んでいる視聴者が不満を述べた。

チェンソーマンにおける不満は「漫画を下敷き」にしたうえで、

「漫画で表現しているノリを、アニメでやってくれない

演出・演者のセリフ・流れ・バトルシーンなど、
いくつかの科目を足したから「ノリ」と書いた。

実写風の演技に対しては「日本映画の悪いところを形にした」書いてある。

「デンジ、もっと大げさにバカっぽさを出せばいいのに、
アニメを見ていると教育を受けたスマートさを持っている

戦闘一つにおいても血みどろ臭さでなくスタイリッシュだと。

画面でも引き(カメラを遠ざける)の展開が多く、
戦闘一つをとってもボルテージを覚ましてしまう描写を入れていると。

例えば一人のOLを出した。OLがいきなりぶっ飛ぶのでなく、
ノートをとり、整理して部屋から出るシーンを追加した。

3話

アニメ(ニコニコ)を見ると「悪魔のくせに人間を助けている」と、
コウモリ悪魔が驚くシーンだ。

コウモリvsデンジだけのバトルで戦闘画面の見に注目させるなら、
わざわざOLがノートをたたんで入れるシーンは必要だったのかと思うところはある。

緊迫なシーンにいきなりほほーんとしすぎたシーンを挟み、
緊迫シーンがいきなり襲ってパニックを起こす。

余計な描写を挟み込むのが邦画の特徴なのか?

ノートをたたむシーンがなくても、変身デンジが落下し、
たまたまOLがその場にいても十分成り立つ描写だ。

後は盛り上がる戦闘なのにBGMがおとなしすぎるなど、演出での批判があった。

参照:チェンソーマンの監督はなぜ叩かれているのか?理由は映画みたいな演出?

 

米津玄師やマキシマムザホルモンのほうがわかってる

一方でチェンソーマンOPを歌う米津玄師さんが主題歌のMVを公開した。

バカっぽくトレーニングを行いながら、
アニメっぽい筋肉をつけてつけて自慢しているし、

最後のマラソンではまじめに走ってて、全体的にB級作品っぽくなっている。

ツイッターをはじめ「米津玄師のほうが、よほどチェンソーマンを理解している」
漫画チェンソーマンの持つ魅力(本質)を理解していると絶賛している。

私もMV見たとき「今までの米津玄師ならこんなMV取らないよな」
あまりにもギャグ展開に笑ってしまった。

EDだとマキシマムザホルモンも褒められている。

疑問が生じる。

なぜ監督と視聴者は不一致が生じ、米津玄師さんは一致したのか?

「見る目・面白いと感じるところ(=感性)が違うから」

一言で説明できるけど、もっと見れば最初受けたインパクトはもちろん、
育ってきた文化環境に違いがあるのだろうか。

上記インタビューを読む限り

  • 自分のやりたいこととの接点をつなげる
  • 大人が見るもので作品鑑賞に耐えうるもの

漫画からあふれるエネルギーやノリに合わせるよりも、
実写映画の雰囲気が下地にあって、アニメでなく実写をやっている感じだと。

視聴者の要望として「普通に作ってくれ」は、
下地は別のもの(実写映画)でなく漫画にしてくれと。

漫画のノリを出すだけでいいんだと。
米津さんは漫画を下地に置いたうえでMVも曲も作った。

米津さんがつんくさんにモーニング娘「そうだwe are alive」の
ワンフレーズを借りたエピソードは衝撃だったよ。

 

解釈が一致していればどうなったのか?

源流こと原作漫画を制作側そして見る側が解釈する。
制作側と視聴者側の解釈が一致すると、社会現象を引き起こしていただろう。

少なくともツイッターなどでは

「このバトルシーン、原作通り、いや、超える展開ですごすぎる」

次々と感動を人に伝えるべく発信していくはずだ。

鬼滅の刃19話での戦闘シーン演出が素晴らしすぎて
19話以降社会現象化したように。

制作側と視聴者側の求める解釈が一致したといえる。

  • 制作側は「漫画からこういう戦闘シーンを表現し、同時に一人の視聴者としても震えたい」
  • 見る側は「カメラの展開、水の表現その他、ぬるぬるですごすぎる」

今回チェンソーマンで多くの人の感想や監督のインタビューなどを見ると、

  • 監督側「日本の実写映画のような淡々とした陰鬱さを表現したい」
  • 視聴者側「漫画を下敷きにB級映画のバカっぽさ全開をたたき出してほしい」

お互いが原作を見て解釈の不一致が起きた。

漫画を通して表現したい想いが現れる。
表現したい想いがB級映画などのバカっぽさよりも淡々とした陰鬱さだった。

 

視聴者が折れるか制作者が折れるか

仮に制作側がツイッターをはじめとしてありとあらゆる媒体から、
アニメに求める内容・演出などを調査しつつ、

大衆に身をゆだねて自分は折れるか、自分の表現を優先し大衆に媚びないか。
(=相手が折れて自分は折れない)

どっちをとっても正解であり間違いもある。

作品を作って世に出してから時(数日や数か月)がたち、
改めて「自分の意見を突き出してよかったか、折ってよかったか」
自問したら大抵は「自分が折れて良かった」になる。

自分が折れた結果、視聴者の求める(期待以上)の展開が生まれた。
人気も集まったし、いい評価ももらっているし、映画化などにつながった。

※もちろんしくじるときだってある
原作のテンポや雰囲気が悪くても、アニメで良くなる例もあるし。

本当は自分の表現したい世界があるけど、
表現したい世界を抑えて、周りが求める世界を出した。

結果を見ればいい条件が自分に舞い込んだ。
「折れてよかったか、やっぱ折れない方がよかったか」

私にはわからないが、私の場合は基本「折れてよかった」思う時が多い。

自分がしたいものって自己満足かつ
創っているときの自分が満足していれば、後はどうでもいい」状態であり、
評価が低かろうが少なかろうが、作っただけで満足なんだ。

後で見ると「やっぱ作ってよかった」思う時もあれば、
「少々強引すぎた、自分を出しすぎた、ひっこめておけばよかった」

創ってよかったものの、一人の視聴者として「これじゃない」も生じる

作り手は作品が完成するまで創作者であり視聴者ではないが、
いざ完成して数日がたち作り手から視聴者に変わると、

「ああ、ここはよかった、ここだめだった。うん、やっぱここはわからないな。
なんであの時の自分はこんな演出をしたんだろう」

視聴者になってはじめて気づく情報がある。

 

監督(リーダー)の仕事及び役割は何なのか?

チェンソーマンで監督が評価されている件を通し、
監督の仕事そして役割って何だろうかと。

私もゲームなどを作っており、一応監督である。

私の中には「ただ世に出せばいい、鑑賞者の評価なんてどーでもいい」
心の中にある世界を表に出すだけに集中する自分が強い

一方で最近できるようになった精神技術として、

「自分はあまり好きじゃないけど、周りはこれが好きなんだ。
自分の好き嫌いを脇において、周りが好む世界を形にしてあげよう」

自分が折れてでも第三者が求めるものに合わせ、
最大限の演出やサービスを出している。

監督自身が自分の仕事、理念をどう捉えているか。
自分をとるか、視聴者をとるか。

理念があるなら、理念を基準に自分をとるか、周りをとるか?

理念は言葉で表現できないし、相手の姿勢を通して私たちが感じ取る情報だ。

理念を自分の言葉として表現できているか。

他人の名言から借りた軽い言葉でなく、
勉強や試行錯誤の末にたどり着いた重たい言葉か?

重たい言葉を私たちは感じ取っている。
だからこそ気を付けてほしい。

私たちの人生もそれぞれが理念・哲学を持っている。

第三者はあなたの理念や哲学を非言語ながらも感じ取り、
「この人は熱い、薄い、寒い、信用できる/できねえ」判断している。

自分は気づかないが、相手は察知している。
ぜひ気を付けて自分なりの哲学を追い求めてほしい。

とりあえず制作側は最後まで気を抜かず、頑張ってほしい

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ティラノスクリプトや小説家になろう、ピクシブ他で物語を書きながら、 「私が気になった事件」の裏側を作家の視点で書いているおっさん。

プロフィール画像は自画像でなく、Megabe-0ブログのマスコット、めがびちゃん。

 

雷が苦手で、光を見ると頭が固まる(元から固い)。 月初めは墓参りと神社参拝を行い、賽銭箱へ1万円を入れた際、とても気持ちがすっきりした。

 

■ 簡単な自分史 ■

0歳:釧路のある病院で生まれる。暇さえあれば母乳を吸って、ご飯を4膳食べても体重が落ちるほど、母のダイエットにものすごく貢献したらしい

 

3歳:行方不明になり、全裸で海を泳ごうとしたところ、いとこのお姉さんに発見され、この世へ留まる

 

8歳:自分のお金でおもちゃのカードを初めて買い、経済を知る。なぜか父親に怒られ、家出するがすぐに見つかる。

 

12歳:学校で給食委員長になる。委員長として初めて全校生徒の前にて演説する際、原稿用紙を忘れてアドリブで笑いを誘いながらも何とかやり過ごし、多くの生徒に名前と顔を覚えてもらう。また、運動会の騎馬戦では変なアドリブを行い、多くの笑いを誘った。

 

18歳:初めて好きな人ができたけれど、告白が恥ずかしくてついにできず、別れたことを今でも根に持っている(妻となる人にははっきり言えてよかった)

 

21歳:大学在学中、アルバイトを始める。人手不足かつとても忙しい日々を過ごしながら「どうせなら自分から楽しいことをしていきたいなあ⇒起業って選択肢があるのか」働き方の選択肢を見つける

 

27歳:自分で作った会社がうまくいかず、一度たたんで都落ち。実家でとことん自分を責める日が続く。「何をやっても駄目だな、お前は」など。自分を責めても自殺ができず、体中から毒素があふれ出て苦しい日々を送る。寝るのも怖かった日々。

 

28歳:「このままじゃいけない」決心を決め、小学校からの勉強をやり直す。高校の勉強で躓きながらも、学び直すうちに「自分は何もわかっていなかったんだなあ」大切な教えに気づかされる。 加えて、小説やイラストなど「今までの自分が手を出さなかった分野」に手を伸ばしてみた。

 

29歳:「定義」と「自己肯定」こそが生き方を決めると気づかされ、不安な日々が起きても、心が強くなったと感じる。でも子供の誘惑にはめっぽう弱くなる。

 

35歳:人生初の交通事故(物損)に出会う。冬道の運転で車を上下に大回転(スピンではない)を体型氏、何とか命を取り留め、なぜ生きているのかわからない状態に陥る。

自分の生き方はすべて自分が握っている。わずかな瞬間にしか現れない「自分の真実」を表に引きずり出し、ピンチからチャンスを生み出す発想や視点をブログやメルマガ他で提供中。