おはよう、しゃしゃ。
ただいま、キンドル向け日本を出すため、
私を通して描いた作品を編集している。
「少しでも視点を変えて、自分にとって有利で面白い社会を創りたい」
考えている人が成長できる本を書いているよ。
ところで本を書いていると、どうも数学に関する本を読みたくなるんだ。
数式が満たしてくれるもの
文章を書いている時はそれほど気にしないのだけど、
原稿を印刷し、読み直している時、数学に関する本を読みたくなる。
大学数学の入試問題はもちろん、
大学生向けの数学本を読み漁ってしまう。
数学は「論理的思考」を鍛える勉強と言われる。
数学で論理的思考を鍛える場合、
練習問題をただ解いているだけでは足りない。
数学には問題、答え、解説がある。
解説をいかに細かくかみ砕けるかがポイント。

「君、そのくらいわかるよね」
解説は途中経過をすっ飛ばしている。
すっ飛ばした途中経過を自分の手で埋めなければならぬ。
そこが数学の面白さであり難しさだ。
すっ飛ばした途中経過を埋めるとき、頭が猛烈に働く。
現代文に例えると、一つの主張のために、
各段落に「どんな意味」があるかを調べる作業だ。
(課題文を読み、出題者の問いかけに対し、
わかりやすい言葉に置き換え、
相手へ伝える作業がとても難しい)
数学は解説がある。でも丁寧ではない。
必ず自分で「解説に書いていない項目」を埋めねばならぬ。
そのとき、流れを付けて相手へ伝える能力が高まる。
数学と現実問題の接点
「数学なんて、勉強以外でどう役に立つのだか」
受験勉強としての数学は、志望校合格以外の意味をなさぬ。
社会人になってからの数学は、
社会の流れを察知し、時代の波に乗る手段として使う。
数学は「数字」を使って社会現象の裏に隠された現象を見抜く学問だ。
確率、微分積分といった解析学、図形、
暗号や「論理」の手段として役立つ整数。
「次はどんなアニメが流行るのか?」
この言葉を数学言語に置き換えると、
「次、●というアニメが流行る確率は?」
「過去にあったアニメはどこで大人気(顧客満足の最大値)をとったのか」
結局、世の中にある「疑問」を数字に置き換えたうえで、
私たちは日々、世の中の問題と向き合っているわけだ。
ただ、数字で扱っているから、現実問題との接点が見つからない。
次はどんな作品が流行りそう?
→次に●●という作品が流行る確率は?
言葉を置き換えたら、気づいた問題を解決するとき、
すべて数学の考えを基本として向き合っているわけだ。
数学の勉強とわかりやすい説明
相手に少しでもわかりやすく伝えたいなと思っているなら、
数学の勉強はかなり良い訓練となるよ。
数学の練習問題はほとんどが「情報不足」だ。
解説のほとんどは紙面の都合上、
「ここらはさすがに自分でやってよ」という部分は削り、
最小限の展開しか残していない。
だから「最小限の展開」をしゃしゃの手で広げ、
中学生でもわかる範囲、小学生でないとわからぬ範囲を考え、
どんどん掘り下げていく。
最初は自分だけがわかればいいけれど、
自分だけがわかっても、読者がわからないと意味がない。
(結果、相手へうまく伝わらない文章の出来上がり)
自分の手で、すでに答えと解説がわかる問題を掘り下げる。
掘り下げるとき「どうしてここでこうなるのか」
自分の言葉で説明できるようになれば、
自分だけでなく相手へも分かりやすく伝えられるよ。
おまけ:上達したければ教える側になってみよう

インスタグラムでイラストを描いています。
キンドル向けに書いている本、
基本は「自分が体験したこと、気づいたもの」を伝えます。
伝える→教える→やってもらう
初めて、私や読者に「価値」が生まれる。
ふと気づいたことが一つ。
「成長するなら、技術を磨くだけでなく、
磨いた技術をうまく教えられるようになれ」
昔は職人のノウハウを「盗み」ながら、技術を身に着けていた。
職人の教え方が下手という意味でなく、
言葉でうまく伝えられない事柄だから真似しろとしか言えぬ。
教える際、まずは自分が理解していないといけない。
次に相手と自分は情報や経験に差があるとつかまなければならぬ。
自分の言葉で伝えても、経験や情報に乏しい受け手は、
「あなたが何を言っているかわからない」となり、
「そのくらい事前に学んでおけよ」言ってしまいたくなる。
教えるって技術を身に着けるよりもたくさん調べる。
基礎的な言葉をつかんでいないと、相手へうまく伝えられない。
情報を整理するうち、自分のやっていることを整理するため、
ひとつの公式が生まれ、さらに強い技術へとつながる。
教育は単に情報を教えるだけではない。
技術も磨き直す「手段」と、気づいたよ。
