
おはよう。
久しぶりにドカッと雪がふり、朝から雪かきにおわれた。
1月2月と違って3月の雪は暖かくて重たい。
私の場合、自宅はもちろん歩いて5分ほどかかる姉夫婦の家もやらねばならぬ。
(北陸地方に住む方々は本当にお疲れ様です)
雪かきを行う時、いかに効率よくやっていくか。
どのくらいまで雪をかくかは決まっているけど、
できるなら効率よく、苦労を最小限に行いたい。
雪かきを行うとき、ふっと数学を通して考えが浮かんだ。
ツイッター他で「数学は役に立つのか」や
「数学はやっぱり役に立たない」と疑問を抱くコメントを見た。
数学がいかに「役に立たせているか」を、
自分なりの視点で書いていきたい。
雪かきと座標と計画

私の家がこんな状態と置く。
あなたならどういう順番で雪かきを行うだろうか?
休日で車を使わないなら、玄関から順番にやっても構わない。
平日で車を使うとなると、玄関先から雪を片付けた後、
最後に車をやるのは非効率だ。
時間に追われていないなら、車を後回しにしてもいいが、
追われている(スーパーだとタイムセール)なら、
車をなるべく早くやらなければならぬ。
そこで「計画」が必要になる。
- 最低限の歩行道
- 車の周り(運転席のみ)
- 車から道路への道
- 一般の歩行道
- 残った部分
計画を立ててから実行に移している。
効率とは何か?
雪かきにおいて、最後はすべての雪をどかすため、
作業量は一緒でも優先度が違う。
効率とは「何を先にやり、何を後回しにするか」と定義する。
雪かきにおいても優先度を間違えれば、
本来すべき行動を後回しに行い、えらく時間がかかる。
時間がかかるだけでなく、心にも焦りがうまれて更なる失敗を招く。
「時間総量が同じ」でも「優先と後回し」
及び「心の余裕」に大きな違いをもたらす。
雪かきのどこに数学を使っているのか?
雪かきを行う時、初めに計画を立てた。
計画を立てる時点ですでに数学思考を使っている。
数学は与えられた問題に対し、即座に解ける問題もある一方、
文章題になると文章を分解したうえで解いていかねばならぬ。
複雑な問題になるほど、分解したうえで手順を整理し、
正解–正解が取れなければ部分点–をとらねばならぬ。
計画とは「最低でも部分点、最高で満点」を狙うための手順、
及び自分が迷って焦りを産まないための指針だ。
数学=単純に文字やグラフを使って、数字をいじくる行為!
考えていると数学の応用に目がいかない。
むしろ数式やグラフを使わない普段の生活・思考にこそ、
数学の本質がよく表れている。
他にも雪の重さを考えたうえで、何を使うか?
「今のかきかたより、少しでも楽にできる方法」を、
雪かきしながら頭を働かせたとき、数学思考をバンバン使う。
作業効率において使う数学は「微積分(解析学)」だ。
今の状況を時間、体力、雪の残り具合など、
いろんな側面から見て脳内で微分していく。
微分とは分子/分母にて分母を限りなく0に近づけたとき、
分子はどの程度動くかを知る道具だ。
数学での解き方において、ある関数を微分した後、
増減表を作ってグラフを作成していく。
数学の解き方を「日常生活」へ強引に当てはめると、
計画を立てて作業手順に沿って雪をかく。
最初から玄関周りをかくよりも、
最初は最短で歩ける道のみをかき、車周りをかき、
残った部分をかいていく方が、車の移動において効率よい。
「数学は役に立つのか」
そのままの意味で考えたら、高確率で「役に立たない」だろう。
一方「数式などを使わない日常生活レベル」において、
その人の考え方、観方、動き方全てにおいて、
「体で数学を使っている状態」にあたる。
私たちは「数学が役に立つ・たたない」以前に、
すでに身をもって数学を使いながら生活している。
「数学=文字や数字を使って計算」
のみを考えているから、役に立たないと決めるわけだ。
数学と現代文の違い

受験において問題といえば「現代文」や「理科・社会」でも扱う。
後はプログラミングでもこれから使ってくるだろう。
特に数学と現代文は「論理的思考を問う」意味では同じだ。
……なら現代文で十分ではないか?
「問題設定」に焦点を当ててみよう。
現代文の問題として
- 説明(言い換えや補足、理由)
- 要約
- 単語や漢字その他
一方数学の問題は分野にもよるが、
現代文で取り上げない問題の出し方をしている。
- 最大値最小値(場合分けを含む)
- 証明
- 計算結果(確率や面積など)
どちらも論理的思考を問いかけているとはいえ、
問題の設定に大きな違いがある。
設定に大きな違いがあると、思考の仕方も変わってくる。
説明問題を解くときと最大最小問題を解くとき、方針が変わる。
まずどこを見て、何に気を付けて……
設定が変わると思考も変わる。
「業績を上げるには?」や、
「どうやって人に分かりやすく伝えようか」などは、
現代文というより数学の思考を使っている。
TLを通して山口敬之さんがロシアのウクライナ侵略について、バイデン視点から語っていた。山口さんの分析を聞くと、バイデンも悪魔だなと思った。
バイデンにとってウクライナはヤーさんにとっての火付け役だったんだなと。まんまと引っかかったプーチンと。https://t.co/wqTwGIC2AX— せんけん (@megabi0) March 15, 2022
今の世界情勢も数学の問題をそのまま使っている。
例えばロシアによるウクライナ侵略。
どこが終着点なのかわからない。
ウクライナが丸ごとなくなれば、侵略は終わりなのか。
ゼレンスキーウクライナ大統領あるいはプーチン大統領のどちらかが、
白旗を上げれば終わりなのか。
あるいは別の何かが働いて、戦争してる状態でなくなるのか。
数学的思考を働かせた場合、どこに執着させたいのか。
そのために何をすべきかのか?
私は国のリーダーでないからわからない。
国際情勢はもちろん、日本国内そして私たちにおいて、
今起きている問題は何か。
そもそも今起きている「苦しい出来事」において、
問題の本質はどこなのか?
問いかけを間違えていないか。、
受験時代、私たちは数学を解く側だった。
今度は作りながら解く側として頑張らねばならぬ。
